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文学がキャッチコピーみたいになってる。問題を提出するのが文学の仕事だろう。なのに、「人生を三〇字以内でまとめよ」みたいな模範解答でオチをつけようとする。そんなオチ無しでも作品は仕上がったのではないか、と思う。解答を据えないと気の済まない作…
先月は仕事で忙しく、年末から正月は帰省で忙しかった。本はあんまり読んでない。何度挑戦しても挫折するドゥルーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』を一〇〇頁ほどでまた挫折した程度だ。「器官なき身体」って、なんなんだ。今回の印象だと、エヴァンゲリ…
並行世界ものが流行るのは、並行世界それ自体が流行っているわけではない。複数の世界や複数の私が流行っているわけで、それはまた、複数の世界がひとつの世界だったり、複数の人が私ひとりだったり、なんてことでもある。そのややこしさは長野まゆみ「デカ…
やっと子供が七カ月になった。妊娠から今日まで出産本や育児書は何冊か読んだ。育児書で特に素晴らしかったのが内藤寿七郎『育児の原理』である。内藤は三年前に百一歳で亡くなった偉大な小児科医である。題名は悪い。乳幼児保健学なんかの教科書のようだ。…
「現代詩手帖」7月号が文月悠光(ふづきゆみ)の特集だった。私はこの人の良さがあまりわからない。特集記事を読めば納得がいくかな、と期待したのである。結果、やっぱわからん。もちろん悪くはない詩人だ。「うしなったつま先」の冒頭二行「靴がない!/…
以下、中上健次の物語論の引用である。彼は物語を「法・制度」として考える。実は、最も重要なその点はこの長い引用でも紹介しきれない。本書よりは、講演「物語の定型」や蓮實重彦との対談「制度としての物語」などを参照すべきだろう。また、蓮實の『枯木…
私は中上健次を真面目に読んだことが無い。ざっと目を通してるだけなので、彼が物語を守ろうとしているのか壊そうとしているのか、よくわからなかった。久しぶりにこの本を読み返し、次の言葉に出会えば答は明瞭である。中上 いまのように人がうたいまわって…
たくさんの本を実家に置いている。それを読むのが帰省の楽しみである。この夏は柄谷行人と中上健次の『小林秀雄をこえて』(1979)を読んだ。対談と評論みっつを載せた本だ。村上春樹が『1Q84』を解説してるインタヴューをいくつか読んでるうちに、物語が気…
俳句は素人と専門家の区別がつかないことがあって、第二芸術論でも論点のひとつになっていた。桑原武夫はこれで俳句を批判したのだけれど、素人が傑作を作れる、と考えるだけなら罪は無かろう。たとえば、もう三十年近くも昔のことだと思う、新聞の俳句投稿…
吉本隆明が『日本語のゆくえ』(2008)でゼロ年代の詩を評し、「「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです」と言った。結構話題になったらしい。一昨年まで私は寝ぼけていた…
鹿島田真希『ゼロの王国』の書評や紹介をネットでいくつか見た。「産経ニュース」(六月二一日)を例にとろう。 榎本正樹が書いた。「鹿島田はデビュー以来一貫して「聖なる愚者」を重要な人物モデルとして描き続けてきた」「吉田青年の回心のプロセスを通し…
何年も前に中島敦『山月記』は研究論文をいろいろ読んだ。クレス出版『中島敦『山月記』作品論集』(2001)を使った。木村一信の作品論がそれまでの研究史の成果の積み重ねの上に立つ到達点で、これを超えるものはなかなか出ないだろう、と思った。主人公李…
二十数年ぶりに江藤淳『成熟と喪失』(一九七八)を読んだ。最初の方、安岡章太郎『海辺の光景』を論じたあたりである。いつまでも子離れできない母親が子を成熟させない、それが日本的な母子関係であると江藤は考えた。『海辺の光景』は格好の素材だ。ただ…
あっちこっちの新聞で、書評家さんたちが今年のベスト3とか2009年の回顧とかなさっている。思ったのは、鹿島田真希『ゼロの王国』を読まずにいたのは手抜かりであった。そうか『白痴』を素材にしてるのか。そりゃ読もう。せっかくだから私も。2009年の収穫…
別れても別れたことになってない腐れ縁の男と女。女は月にいくばくかの金を貢ぎ続けて男の夢を支える。派手な展開は無い。特に芸も無い文体で、断片的なエピソードの積み重ねで、ぢわぢわ状況を変えてゆく。片方は小説家志望だ。作家自身をモデルにしたと思…
亀山郁夫による新訳が出たので『罪と罰』を二十数年ぶりに読み返した。昔の読書をほとんど覚えていない。若い私はマルメラードフの露悪的な端迷惑に嫌悪感をつのらせるばかりで、飛ばし読みだったのである。ところが、いまや五〇歳に近い私はマルメラードフ…
副題は「閃光の庭」。これが第一詩集らしい。古風な、どことなく定型句めいた言葉遣いが目立つ。形式感も備えた詩人で、読んでいると、賦とか、頌とか、私の頭にはそんな実はよく知りもしない用語が浮かんでくる。「エクピュローシス」なんて言葉を初めて聞…
私が最初に詩集を買ったのはたぶん高校一年の時で、新潮文庫の西脇順三郎、アポリネール(堀口大学訳)、角川文庫の中原中也だった。西脇がいちばん私の性に合っていると思うが、若気のいたりでハマったのは中也だった。おかげで今でも読むことがある。そし…
変った職業を題材にする時は近代文学の手法が活きるはずだ。リアリズムにせよ、象徴主義にせよ。「文芸」夏号の中村文則「掏摸(スリ)」はその好例である。 参考資料にブレッソン『スリ』のDVDが挙がっていた。小説での財布を抜き取るリアルな指使いは、た…
三月にふれた中村梨々と白鳥央堂(ひさたか)のその後について。梨々は季刊「びーぐる」の投稿欄で読むことができる。ちなみに、「びーぐる」は「詩学」も「るしおる」も無くなってしまった詩壇の危機意識から昨年に創刊されたばかりの雑誌である。 もう 子…
かつての「ユリイカ」も1969年になると六〇年代詩人の特集を組んだ。「現代詩手帖」も同じだ。四月号の特集は「ゼロ年代詩のゆくえ」である。水無田気流、中尾太一、蜂飼耳、岸田将幸、佐藤雄一の座談会を読んだ。本題の「突破口はどこにあるか」よりも「ゼ…
二十年ほど前までは「現代詩手帖」を買い続けていた。ただし、古本屋で七〇年代やさらに昔の号をさがす方が好きだった。対談や座談会が頼もしく、鮎川信夫、吉本隆明、谷川俊太郎、大岡信が常連だったからである。一五〇円ほどだった。 私はいま、戦後詩から…