「新潮」八月号、柄谷行人「哲学の起源(2)」

第三章 イオニア自然哲学の背景 イオニアの思想は自然哲学だった、と哲学史では解説される。それが含意するのは、イオニア哲学は未発達で、まだ人間の内面や倫理を問題にできなかった、ということだ。それはありえない、と柄谷行人は考える。
1自然哲学と倫理 倫理とは個人がどう生きるかにかかわる。だが、共同体に内属する状態では、個人は存在しない。そこから出たとき初めて、ひとは個人となる。そうして「自己」が見出され、また「倫理」が問われるのである。その意味で、倫理や自己の問題が問われたのは、先ずイオニアにおいてであった。同時代のアテネでは、そのような問題は存在しなかった。なぜなら、そこでは、個人は氏族的段階以来の共同体から自立していなかったからである。
 たとえば、自然哲学によって世界を説明するとは、共同体が信仰してきた神々による創世神話を認めない、ということである。共同体から自立した個人だからこそ、自然哲学を考えることができる。そして、こうした個人や個人間において初めて人間の内面や倫理が問題になるのである。
2〜5ヒポクラテス ヒポクラテスヘロドトスホメロス、ヘシオドスという四人のイオニア人を挙げる。
 ヒポクラテスは、「神や悪霊のせいにされていた癲癇を、たんに自然的原因をもつものだと考えた」。奴隷と自由人を区別せず治療したのも、「人間を、ポリス、部族、氏族、身分のような区別を括弧に入れて見る態度と切り離せない」。
 同様、ヘロドトスには自民族中心主義が無い。ホメロスの描く神々は「氏族的伝統をもたないポリス成員の連帯にとって必要であった。このような神々は、氏族神の延長ではありえない」。ヘシオドスは労働を積極的に肯定した。土着の貴族や昔ながらの氏族神の祭司のような階級が権力を握っている社会ではありえぬことである。