「毎日新聞」三月三一日、田中和生「文芸時評」

 田中和生毎日新聞文芸時評で言い続けていることがぴんとこない。一言で言えば、リアリズムの勧めである。三月三一日のが最初で、これだけでも最低限の主張はわかる。東日本大震災があり、福島の原子力発電所の事故が起きた、それによって、

 どんな地震があっても日本の原発は大丈夫だという「安全神話」は崩壊し、原発は地球環境に優しい「クリーンエネルギー」だという看板も剥げた。だとすればそこに必要なのは、それらの原発をめぐるファンタジーが消えたあとの日本の現実について語るリアリティーのある言葉だ。

 かつて日本人はそんなに素朴に「原発をめぐるファンタジー」を信じていただろうか。10/03/31 に書いたような、「信じていないけど信じているという微妙な」態度の方が日本人の心性に近いと思う。「原発をめぐるファンタジーが消えた」と書いて済ませられる単純な雲散霧消があったとも思えない。事故直後の世論調査では、原発の将来に関しては現状維持を望む意見が一番多かったはずだ。そんな状況で、「ファンタジー」の盲信から覚めた国民は「リアリティーのある言葉」へ転換する必要がある、と主張すること自体、すでに「日本の現実」を語り損ねてるのではなかろうか。
 田中は原発を論じた「必読文献」を何冊か挙げて、「過去にけっして原発について語るリアリティーのある言葉がなかったわけではない」ことの証拠とする。ただ、それらは軽視されてきた、と言う。

 今回の事故が起きるまでリアリズムが軽視され、ファンタジーが現実だと錯覚されてきただけである。そしてその原発をめぐる言葉のあり方は、そのまま一九八〇年代以降リアリズムを放棄してきた日本の現代文学に当てはまる。つまり原発をめぐる言葉の問題は文学の問題である。

 リアリズムって何だっけ、と思う。自然科学の進歩に対する信頼が無ければ主流にはなりえなかった文芸思潮だったような記憶がある。リアリズムの現実観には自然科学の現実観が基礎にある。むしろ、原発のような科学力を否定できない心性からリアリズムは生まれたんぢゃなかろうか。そんな科学信仰が第一次世界大戦によって揺らいだ後にシュルレアリスムがやってきた。すると、このたびの事故で「原発リアリズム」が崩れて、一層徹底したシュールなファンタジーが必要とされたとしても、私は驚かない。
 田中の提唱する「リアリズム」は私が勉強したリアリズムと違うのだろう。この回の時評で彼がきわめて高く評価した藤波心の三月二三日のブログを引用しておこう(改行は省略した)。

 一体汚染はどこまで広がるのでしょうか。そして、いつまで続くのでしょうか・・・。テレビでは、やたらと「安全性」ばかり強調しています。「風評被害」に惑わされないで、「冷静」に対応してと・・・。汚染された野菜を食べ続けても安心です・・・。汚染された水を飲み続けても安心です・・・。個別の数値は低くても、ただちに健康を害することはない? 量だったとしても、微量とはいえ空気中の放射性物質を吸い続け、微量とはいえ、汚染された野菜を食べ続け、微量とはいえ、汚染された水を採り続ければ・・・微量+微量+微量イコール→?? しかも、そういう生活が1週間続くのか、1カ月なのか、1年なのか・・・・3年なのか・・計算私あまり得意じゃないけど・・・・( ̄_ ̄ i)・影響があることくらい、バカな厨房2年の私でも分かるのに!!

 本当にテレビは「やたらと「安全性」ばかり強調して」いただろうか。テレビは安全性を伝えると同時に不安もあおっていた。藤波の文章は、テレビの報道する安全性を非難しながら、不安に関してはテレビを真に受けていることの自覚が極めて弱い。さらに言えば、「計算」くらいしたら?とも思う。これが田中の「リアリズム」なのか。彼の言う「ファンタジー」も「リアリズム」も私にはわからない。