2010-01-01から1年間の記事一覧

映画「ノルウェイの森」

やっぱり、これだけは書いておきたい。 松山ケンイチは口蹄疫(こうていえき)なのでは?

更新さぼりがちのある日。

梅田のTOHOでトラン・アン・ユン「ノルウェイの森」を観た。あまりに凡庸な映像である。ほんとうにこの監督は「夏至」を撮ったことのある人なのか。本当は同姓同名の「水戸黄門」のスタッフがいて、そいつが作ったのではないのか。 もういい。この話はやめよ…

霜月の一番、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第三夜以降

読むことをめぐる佐々木中の第三夜は、イスラム教の教祖ムハンマドについて語る。ムハンマドの最初に受けた啓示とは「読め」だった。そして、佐々木が強調するのはムハンマドの特殊性である。法の起源に関するフロイトの説明と対比させて言う、ムハンマドは…

閑話(クォンタム・ファミリーズ)。

東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』とその初出形「ファントム・クォンタム」について、私は三〇回くらいの記事を書いてるのではないか。いくら書いてもわからんところが残る。優秀な読者ではないのだろう。そんなことをひとつだけ付け足しておく。 主人公の…

十年前の「新潮」臨時増刊と「文学界」を読んだ。

十年前は三島由紀夫が死んで三十年だった。「新潮」が臨時増刊を出した。アンケートがある。1、「三島由紀夫」が好きですか、嫌いですか。それは何故ですか。2、自決後の30年間はどういう時間だったと思いますか。3、三島作品のベストワンは。(ごく簡単…

島田雅彦『悪貨』

島田雅彦について、「一作でもいいから、その才能・資質にみあう形で小説を完成してもらいたいものである」と、福田和也は『作家の値うち』に書いた。それから十年たった。相変わらず島田は大家っぽい未完の大器だ。傑作を書かないのは彼の作風なんだと、も…

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第二夜(その2)

ルターが『聖書』を「読んだ」というのは有名な話だ。私が初めて意識するようになったのは柄谷行人「テクストとしての聖書」(一九九一)だった。いまは『ヒューモアとしての唯物論』で読める。ややこしいことを言っている。 ひとびとが聖書を読みはじめたの…

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第二夜(その1)

武田泰淳『司馬遷』(一九四三年)の「自序」の冒頭は、「私達は学生時代から、漢学と言ふものには、反感を持つてゐた」である。「要するに、私達の求めてゐたのは「文学」そのもの、「哲学」そのものであり、支那文学、支那哲学ではなかつたのかも知れぬ」…

朝吹真理子『流跡』

私の言及した作品が後に何かの賞を獲ることが多い。純文学を扱う他の同様のブログと比べて多いんぢゃなかろうか。話題作の受賞は当然として、高樹のぶ子「トモスイ」(川端康成賞)とか、楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(前川佐美雄賞)とか、「パンドラの匣」…

十年前の「ユリイカ」4月号を見つけた

昨年から文芸誌を読み始めて気がついたのは、私の複数性と世界の複数性を扱った作品が多いことだった。もちろんこれは文学史上初という事態ではない。十年前の「ユリイカ」四月号が「多重人格と文学」という特集を組んでいるのを見つけた。大塚英志と香山リ…

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第一夜

あまりに分厚くて佐々木中の『夜戦と永遠』も小熊英二のいろいろも読めずに積んだままでいる。あーあ、と思っているところに佐々木は『切りとれ、あの祈る手を』を出してくれた。普通の厚さだ。五夜にわたるインタヴューである。題名はツェラン『光輝強迫』…

第62回正倉院展

最初に正倉院展を観たのはいつだろう。「鳥毛立女屏風」が目当てだったから一九九九年(第五一回)か。それから四回くらい行ったのかな。ベストは二〇〇五年(第五七回)である。「平螺鈿背八角鏡」が印象に強い。平日に行くようにしており、混んでるという…

二〇年前の「中央公論」で宮台真司を読んだ。

一九九四年の宮台真司『制服少女たちの選択』は二部に分かれている。ブルセラ論争に関するものは第一部だ。第二部は「中央公論」一九九〇年十月と十一月号の「新人類とオタクの世紀末を解く」を書き直したものである。『制服少女』の第六章が十月号で、第七…

神無月の一番、高岡修『幻語空間』

こないだ読んだ『阿部和重対談集』(二〇〇五年)で高橋源一郎がこう言っている、「現代詩がどうしてデッドロックに乗り上げたかというと、それは完璧主義と「新しくなければいけない」という規範のせいです。そして、これはモダニズムの考え方そのものなん…

「新潮」8月号〜11月号、長野まゆみ「デカルコマニア」

並行世界ものが流行るのは、並行世界それ自体が流行っているわけではない。複数の世界や複数の私が流行っているわけで、それはまた、複数の世界がひとつの世界だったり、複数の人が私ひとりだったり、なんてことでもある。そのややこしさは長野まゆみ「デカ…

中公文庫「完全版」伊藤比呂美『良いおっぱい悪いおっぱい』

やっと子供が七カ月になった。妊娠から今日まで出産本や育児書は何冊か読んだ。育児書で特に素晴らしかったのが内藤寿七郎『育児の原理』である。内藤は三年前に百一歳で亡くなった偉大な小児科医である。題名は悪い。乳幼児保健学なんかの教科書のようだ。…

小谷野敦『現代文学論争』(その2)

私の記憶では、スペースシャトル・チャレンジャー号の事故は日本でも中継されていた。見ていたと思う。キャスターは久和ひとみで、これは間違いない。シャトルが分裂する間、しばらく無音の時間が流れていた。私は「これは事故なのかな」と思った。久和の何…

小谷野敦『現代文学論争』(その1)

「まえがき」に、臼井吉見『近代文学論争』の「後を受けるもの」とある。最近の論争についてもそんな本があればなあ、とかねがね思っていた。ありがたい。それにしても臼井のあれ、どこにやったか。もう二十年以上も前に勉強で読んでそれっきりだ。それでい…

読売新聞10月9日、水村美苗「母の遺産」第三十九回

主人公の母が死んで終わりかと思ったら、まだ続いている。主人公はいま箱根に逗留しているところだ。どうまとめるつもりなのか。母の死とその後で共通する話題は、いまのところ夫の愛情が薄れてしまったことだけである。 主人公は新婚旅行を思い出している。…

ised(情報社会の倫理と設計)設計篇

国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)の東浩紀研究室(06/08/01,解散)が二〇〇四年から翌年にかけて運営していたシンポジウム「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」(Interdisciplinary Studies on Ethics and Design of In…

十年前の「新潮」を読んだ。平野啓一郎「葬送」第一部、よりもCD。

五五〇枚を一挙掲載である。あんまりたくさんなので、単行本との違いを比較する気になれなかった。当時の新聞時評を確認すると、川村湊も菅野昭正も、第二部もふくめ「葬送」に言及していない。平野啓一郎のブログには、「ピアニストの方と会うと、『葬送』…

新潮10月号、特別対談「書くことと生きることは同じじゃないか」

吉本隆明とよしもとばななが対談している。一か所だけ、吉本の発言が、読んでいて「ああそうだったか」と昔の彼を思い出させてくれた。 家族や親族というのは、本来一人の男性と一人の女性の性的なつながりから発展した集団で、これは他のどんな社会集団とも…

文学界10月号、鼎談「ありうべき世界同時革命」

「文学界」十月号で『世界史の構造』をめぐって、著者柄谷行人が大澤真幸、岡崎乾二郎と鼎談してる。柄谷が日本国憲法第九条に言及してる部分で、ちょうど二〇年前の本を思い出した。岩井克人との対談書『終りなき世界』の最後のところだ。 よく日本は、西洋…

長月の一番、「新潮」9月号、舞城王太郎「Shit, Brain Is Dead.」

砂漠に派遣されたアメリカ兵たちの話である。任務が変わってる。指定された場所に着くと、アメリカ女が居る。民間人だ。彼女はそこで深い穴を掘る作業の指揮をとっている。何のために?夫を探すためだ。行方不明になった夫は何日も砂中を移動しているという…

詩、まとめて。

「現代詩手帖」7月号が文月悠光(ふづきゆみ)の特集だった。私はこの人の良さがあまりわからない。特集記事を読めば納得がいくかな、と期待したのである。結果、やっぱわからん。もちろん悪くはない詩人だ。「うしなったつま先」の冒頭二行「靴がない!/…

「新潮」9月号、朝吹真理子「きことわ」

子供の頃に夏を過ごした別荘が無くなる、という話だ。二年前に軽井沢タリアセンに移築された朝吹山荘をちょっと連想させる。ほか、こんな場面が気になった。「これかけていい?」 和雄がカセットテープをかえる。聞き覚えのない音に春子が曲名をたずねる。「…

福永信『星座から見た地球』

A、B、C、Dという四人の子供の話を福永信はあちこちで書いている。このブログで扱ったものでは「午後」がそうだ。それらをひとまとめにした本が『星座からみた地球』である。小さいけど、装画と装丁を三十三人で担当した洒落た本だ。一頁弱かけてAにつ…

城林希里香『Beyond』

書店で久しぶりに写真集の棚をのぞいてみた。今年のものでは、藤岡亜弥『私は眠らない』の表紙が衝撃的であった。祖父の頭部を真上から撮ったようである。悩んで、別の一冊、城林希里香『Beyond』を買った。画面のほとんどが空である。下の方、4分の1か5…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(3)

最後に繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。終りをもたらす「敵」の佐藤友哉のイメージはこうだ。 「蝮のすえ」には、童貞臭がしないのです。(略)登場人物の年齢や関係、活動理由などは明らかに「大人」のそれで、青春汁の薄…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(2)

繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。ある作家の本が本屋から消えれば、その作家の文学は終わった、それに尽きる。柄谷行人「近代文学の終り」冒頭と比べてみよう。 今日は「近代文学の終り」について話します。それは近代文学…