読売新聞10月9日、水村美苗「母の遺産」第三十九回

 主人公の母が死んで終わりかと思ったら、まだ続いている。主人公はいま箱根に逗留しているところだ。どうまとめるつもりなのか。母の死とその後で共通する話題は、いまのところ夫の愛情が薄れてしまったことだけである。
 主人公は新婚旅行を思い出している。港に行った。彼女は歌う。「すると一番の半分ほどいったところで哲夫は美津紀の傍を静かに離れたと思うと、そのまま埠頭の方へとゆっくり遠ざかっていってしまった」。今にして思えば、これが亀裂の始まりだったかもしれない。「愛する女の歌を喜んで聴いてこそ夫ではないか、とその時はそこまでは考えなかったが、声にならない叫びが井戸底から響くように胸を駆け抜けた」。箱根の宿で彼女はつくづく思う、「あたしは、あたしが望んでいたようには、愛されなかった」。
 この件に関しては私は哲夫の味方である。新婚旅行の最中だろうと、ふと物思いに沈んでしまうことだってあるではないか。そんな時は女の歌でかき乱されたくないのである。最も可能性が高いのは、新妻の歌を港で聴く夫という設定が気恥ずかしかった場合だ。近くに他人の視線があったりすれば、とりあえず歩きだすのは当然であろう。主人公は歌いながら後に続けばよかった。何より、こんな大昔のたった一回の事例から「あたしは、あたしが望んでいたようには、愛されなかった」なんて言われても困る、等々、私は熱弁をふるってしまうぞ。
 嫁もこの連載を楽しんでいる。今回は我が意を得たりと感じたようだ。「もう、そうなのよ、泣きそうになったわ」。こわい。私には思い当たる節がいくつもある。多くは新妻の歌と同様の誤解である。それは避けられなかったとしか考えようが無い。なるほど哲夫よ、君は間違っていない。それが何になる。どんなに君が正しくても結果はこうなのだ。以来、我が家では「あたしは、あたしが望んでいたようには、愛されなかった」は流行語になった。胸に蓄積させるよりは、つねに口にしてる方が軽い。特に、泣き叫ぶ7か月の愛児の顔に、こう書いてあるように思える。われわれは深くおそれ、抱き、あやす。