小谷野敦『現代文学論争』(その1)

 「まえがき」に、臼井吉見近代文学論争』の「後を受けるもの」とある。最近の論争についてもそんな本があればなあ、とかねがね思っていた。ありがたい。それにしても臼井のあれ、どこにやったか。もう二十年以上も前に勉強で読んでそれっきりだ。それでいいのである。さっと論争の事情を知っておくには便利だった。本書もそんな印象で読んだ。もっと知りたければ、自分で調べればいい。
 つまらない間違いが多い。版元のページにも著者のブログにも訂正のお知らせがある。私が見つけたのもいくつかある。255ページの「文学者の反核声明」は「文学者の反戦声明」だろう。316ページ「よしめぎはるひこ」の「よし」の漢字が二通りある。もしかしたら、本当は「よしめき」なのかもしれない、とも思わせてしまう。ついでに、368ページの「不断の言動」は「普段の言動」のつもりか、「不断」で悪いとは言い切れないだけに気になる。これらは見つけやすいからまだいい。もっと大事な文学史に関わる年月日や固有名詞などは、読者には気づきにくい。きっとそうしたミスもあるだろう、と思われても仕方あるまい。
 いささか分厚いのも迷惑だ。余計な記述が多いように感じる。たとえば、柄谷行人埴谷雄高が酒席で顔を合わせた、このとき、柄谷によれば埴谷は高橋和巳の文学を悪く言った、対して埴谷はそんなこと言ってないと反論した。これが「反核論争」の章に紹介されている。対して、くわしく書くべきことを省いている。反核声明に署名した中野孝次、秋山駿と、それを批判した柄谷行人中上健次による、激しい罵り合いに終わった座談会の内容を伝えていない。ほか、言及される人物たちの生年没年をいちいち記載している反面、永山則夫をめぐる論争の章を読んでも、永山がまだ生きてるのか死んでるのかはっきりしない。
 無駄話はいいから、もっと自分の主張を固めろ、と思う。筒井康隆の断筆宣言に関して、「売れっ子作家だからそんなことができるのだ」と小谷野は言う。そうだろう。けれど、売れっ子作家が、誰にでもできるような他の手段をとってもつまらんだろう。小谷野の言いたいことはわからんでもない。もっと説得力ある議論を積み上げてほしいのだ。
 小谷野は論争の少なくなった現代文学を残念に思っている。私はどうでもいいと思っている。たいていの論争はくだらないからだ。本書には十七の章に分けて諸論争を扱っている。そのほとんどが(すべてが、と言ってもいいか)、無意味な論争、虚しい論争とまとめられており、この点では私と同意見のようだ。派閥間の争いであったり、自説の間違いを認めたくなかったり、そんな事情で続いた論争ばかりだ。昔は、共産党の権威や鴎外の立場など、それなりに重みはあったろうから、論争を読む人も真剣だったかもしれない。今はようわからん。
 それなら、と思う。小谷野敦は論争をけなすばかりだ。論争が減ったことを本当に残念に思ってるのだろうか。思ってるのだろう。それがはっきり読み取れるのは「まえがき」と「あとがき」だけだ。肝心な論争の経緯から伝わらないのが本書の最大の難点である。これにはもともと小谷野が、論争者たちをその派閥や生い立ちや性格からしか理解しようとしない傾向があることも関係してるだろう。全十七章の中には、案外深い意味を持った論争だったのに、小谷野に解説されたおかげで、師匠をめぐる代理戦争や独りよがりの泥試合に映ってしまったのが、あるかもしれない。