早稲田文学、第三号、斎藤環「コドモと文学」

 ぶあついわりに中味の薄っぺらいのが「早稲田文学」である。第3号は表紙が目立つ。沈んだ目つきの中年男性が、本の多い部屋に幼女を引きこんだところだ。ひとつページをめくると、どうやら彼は幼女を公園で誘ったらしい。鋭い視線だ。さらにページをめくると、幼女は男になついてしまった。男が安堵しているのがわかる。
 それからしばらく、紙を無駄にすまいという意志がこの雑誌に感じられるまで200ページ以上もかかった。それでも斎藤環「コドモと文学」は読んだ。題名だけ編集方針にそって、中味は子供と無縁の文学論である。
 文学は必要か、と問われて彼は答える、「どちらかといえば必要ない」。問題は必要かどうかではなく、それが「すでに欲望されているもの」であることだ。欲望は決して満たされることが無い。「はまればはまるほど満たされなくなる」という逆説がわれわれと文学を結びつけている。それは「固有性への欲望」だ。「あなたはひょっとして、自分の生を、この自分だけに固有のものと思ってはいないだろうか(略)もしそうであるなら、それがあなたの「文学」である」。
 これまで何度も私が佐々木敦永井均を借りて「「この私」から離れて「私」を考えることができない凡庸さ」と述べてきたものが、斎藤によって文学の本質に結びつけられたように感じた。「固有性への欲望は、物語へと向かう欲望の最小単位なのだ」。このあたり、もっと詳しく書いてほしかったが、旧著『文脈病』などを参照してほしい、とのこと。
 もちろん、文学を否認する身振りも文学のうちである。柄谷行人など典型だろう。いまさらわれわれは文学から逃れることができない。斎藤の結論は、「自分の欲望の本質を知る努力を怠ってはならない、ということだ」、である。「幻想に騙されて欲望が満たされたと錯覚してはいけない」とも言い換えている。絶えざる物語批判が要請される、という意味だろう。結論だけでは柄谷行人蓮實重彦と変わらない。