2009-11-01から1ヶ月間の記事一覧

霜月の一番。津村記久子『アレグリアとは仕事はできない』(2008)

三月に図書館に貸出を頼んだ本がやっと順番がきて読めた。ぎりぎりまだ一年たってない本だから、これを新刊と認定して今月の一番に。二篇収録されているうち、表題作が良い。 職場のコピー機の調子が悪い。機械が自分に悪意を働かせているのではないか、と主…

吉村萬壱『ヤイトスエッド』など

生活とか自分の存在とか、現代文学ではそういったものがいかにもろいか、それにまつわる不安がよく描かれてきた。実際はどうだろう。なかなか崩れるものではない。もっとも、日常と自我を維持しようと努力するようでは続かない。むしろ、とことん崩れても、…

吉田篤弘『圏外へ』

吉田篤弘『百鼠』(2005)が気に入って、彼の小説はもちろんクラフトエヴィング商会もたくさんそろえた。熱中したわけだが、どうもその後がぱっとしない。『圏外へ』が出たので、これが駄目ならもうお別れだ、と思って買った。作家が主人公である。彼は自分…

「文芸」冬号、文芸賞、大森兄弟『犬はいつも足元にいて』

文芸誌五誌どれかの新人賞を獲ったら次に芥川賞や三島賞などを狙う。この階段をなんとか上りきれる確率は三割ほどではないか。もちろんゆくゆくは読売賞や谷崎賞も獲らねばゴールではない。おもしろうてやがてかなしき新人賞、という気分になる。九〇年代の…

現代訳ウェーバー『職業としての学問』(三浦展訳)

1917年のドイツの講演である。大学教員のあるべき姿が説かれている。ただ、そう読んでしまうと、われわれの実感には合わない面ばかり目立つ。しかし、訳者はこれを現在の日本社会全体の文脈に置いても読めるものとして提示した。「現代訳」と銘打ってるのは…

冨永昌敬『パンドラの匣』(太宰治原作)

冨永昌敬「パビリオン山椒魚」はひどかった。新人が映画をなめた、ありがちの駄作だった。二度とこの監督の映画は見なくていいという確信を得られたのだ、決して金と時間の無駄ではなかった、そう自分を納得させて帰路についたものだ。太宰治「パンドラの匣…

永井均『道徳は復讐である』(『ルサンチマンの哲学』文庫化)その2

文庫化にあたって巻末に加えられた永井均と川上未映子の対談は、やはり面白かった。まづ、断片的な例からいくつか挙げてみよう。「ニーチェを読んで元気が出るような人間ではダメだ」なんて発言が出てくる。これが何を意味しているかは前回に書いた。また、…

永井均『道徳は復讐である』(『ルサンチマンの哲学』文庫化)その1

二十年前ほどのニーチェの解説書というと、多くはニーチェの生涯に紙幅を費やすばかりで、思想については通り一遍のことしか書いてなかった。結局、一番便利なのはドゥルーズ『ニーチェと哲学』(邦訳1974年)だ、と言うしか無かったのが私の実感である。状…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その3)

『蓬莱曲』の一節「わが眼はあやしくもわが内をのみ見て外は見ず」が、森鴎外の訳した「マンフレツト一節」(バイロン)の「わがふさぎし眼はうちにむかひてあけり」と似ていることは知られている。両者を比較して、鴎外に安定感がある。それは鴎外が透谷の…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その2)

連載第三一回は前置きのようなもので、北村透谷の名が現れるのは第三二回からである。話が面白くなるのは第三三回からだ。透谷の文体が分析される。寿輝の挙げる三点のうち二点を紹介しよう。 ひとつは、「然れども」の連鎖。透谷はこの逆接の接続詞を連発し…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その1)

「新潮」は明治文学を論ずる大型評論をふたつ連載している。渡部直己「日本小説技術史」と松浦寿輝「明治の表象空間」である。どっちも私が文芸誌を読み始める前に始まっており、なにより力作だから文章がややこしい。ちらっと眺めるだけで敬遠している。「…