「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その3)

 『蓬莱曲』の一節「わが眼はあやしくもわが内をのみ見て外は見ず」が、森鴎外の訳した「マンフレツト一節」(バイロン)の「わがふさぎし眼はうちにむかひてあけり」と似ていることは知られている。両者を比較して、鴎外に安定感がある。それは鴎外が透谷の文学とは無縁の境地で書いているからだ。そう述べたのは北川透だったと思う。「自己」や「内面」に真正面から取り組んでしまったのが透谷の文学だった。
 「自己」や「内面」を実体と見なせれば楽だったろう。しかし、『蓬莱曲』の主人公柳田素雄は言う、「そもわが足らはぬはわがおのれの中より出ればなり」。ある空っぽに透谷は取り組んでいる。連載第三四回で松浦寿輝は、「この欠如は、心理的なものであるよりはむしろ構造的なものであるように思われる」ととらえた。透谷の「空っぽ」をラカンの「対象x」やドゥルーズの「空白の升目」で説明したのである。

 ドゥルーズは言う。「ゲームには空白の升目が必要である。それがなければ、何一つ進展しないし何一つ機能しない。対象xは自身のいる場所とは区別されないが、ひっきりなしに位置移動するのがこの場所の役目であり、それは絶えず飛び移りつづけるのが空白の升目の役目なのと同様である」。

 またラカンか、とは思うが、ラカンを引用しながらそれが通俗化されたフロイトと同じ古さを感じさせる尾西よりはましかな、とは思う。「空白の升目」については15ゲームを思い出せばいいだろう。4x4の枠内で15枚の駒を動かしてその配列を整えるパズルゲームである。あれは「空白の升目」が「ひっきりなしに位置移動する」ゲームだし、「それがなければ、何一つ進展しないし何一つ機能しない」。

 ひとつたしかなことは、内とも外とも一義的には定めがたい謎めいた場所に絶えず「空白の升目」があり、それが『蓬莱曲』の全編を通じて透谷のエクリチュールを駆動しているという点だ。それは、人がそれを探し求めるところにきまってなく、それがないところに決まって発見されるといった、絶えず視点から逃れて他処へ飛び移りつづける特異な空白であり欠如である。

 「それを探し求めるところにきまってなく、それがないところに決まって発見される」が「盗まれた手紙」を想起させるラカン的な文句であるのは言うまでも無い。連載第三五回の最後で寿輝が比較するのは、空白を抱えた透谷の内面と、言文一致によって空白を充足された内面である。後者の実体化された内面によって形成された近代日本文学の秩序を彼は「幻想の近代」と呼び、前者を「現実の近代」と呼ぶ。前者の系譜で新しい文学史を書けたら素敵だろう。三六回からこの連載は樋口一葉に移る。もちろん、「にごりえ」や「たけくらべ」は言文一致ではない。