「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その2)

 連載第三一回は前置きのようなもので、北村透谷の名が現れるのは第三二回からである。話が面白くなるのは第三三回からだ。透谷の文体が分析される。寿輝の挙げる三点のうち二点を紹介しよう。
 ひとつは、「然れども」の連鎖。透谷はこの逆接の接続詞を連発して絶えず文脈を断ち切り、語り手の内面の自然な成立を許さない。「そこかしこで破れ目を見せつつ持続するその言葉の運動を通じて辛うじてその輪郭が触知可能となるものが、透谷的『内部』なのだ」。
 もうひとつは恋愛の言説に見られる執拗な内部分裂。「最初の出会いの瞬間以来、二人は互いの『霊魂』を半分ずつ交換し合い、『我』は『彼女の半部と我が半部』を持ち、『彼女』は『我が半部と彼女の半部』を持つことになったというのだが、(略)さらに、引き裂かれた者同士がなおかつ牢獄の鉄塀によって改めてもう一度引き裂かれ、つまりは四つの部分に分かれて」云々と説明される。
 とうてい円満な自己解決や自己完結は望めない。そんなスタイルを持った詩人にふさわしいのが「複数の声の交錯から成る戯曲」であることは「自明であろう」、と寿輝は『蓬莱曲』の誕生を肯う。