松浦寿輝

師走の一番、庚寅の一番。

先月は仕事で忙しく、年末から正月は帰省で忙しかった。本はあんまり読んでない。何度挑戦しても挫折するドゥルーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』を一〇〇頁ほどでまた挫折した程度だ。「器官なき身体」って、なんなんだ。今回の印象だと、エヴァンゲリ…

十年前の「文学界」2月号を読んだ

明治初期の国学系雑誌「大八州学会雑誌」というのを読んだことがある。大森貝塚の発見などによって歴史の考え方が大きく変わる時代だ。しかし、大八州学会はそんなこと認めない。ざっと要約すると、「古事記や日本書紀のありがたい書物と、土の中からいまさ…

睦月の一番、「群像」1月号、松浦寿輝「塔」

平岡ものである。昨年一月号の「川」については前に書いた。ほか「新潮」七月号「鏡よ鏡」がある。昨年の文芸五誌に載った平岡ものはこれが全部だ。三作目ともとなると、私も読み慣れてきた。もう市ヶ谷の事件と関連させて読んだりはしない。それでも、「川…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その3)

『蓬莱曲』の一節「わが眼はあやしくもわが内をのみ見て外は見ず」が、森鴎外の訳した「マンフレツト一節」(バイロン)の「わがふさぎし眼はうちにむかひてあけり」と似ていることは知られている。両者を比較して、鴎外に安定感がある。それは鴎外が透谷の…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その2)

連載第三一回は前置きのようなもので、北村透谷の名が現れるのは第三二回からである。話が面白くなるのは第三三回からだ。透谷の文体が分析される。寿輝の挙げる三点のうち二点を紹介しよう。 ひとつは、「然れども」の連鎖。透谷はこの逆接の接続詞を連発し…

「新潮」2〜6月号、松浦寿輝の透谷論(その1)

「新潮」は明治文学を論ずる大型評論をふたつ連載している。渡部直己「日本小説技術史」と松浦寿輝「明治の表象空間」である。どっちも私が文芸誌を読み始める前に始まっており、なにより力作だから文章がややこしい。ちらっと眺めるだけで敬遠している。「…

「文学界」9月号、対談みっつ。

こないだの芥川賞はいかにも磯崎憲一郎に取らせようという布陣で候補作が選ばれ、順当に磯崎「終の住処」が取った。記念対談ということで保坂和志が相手になっている。最初の話題は、朝日新聞が受賞作をどう要約したか、だ。 ともに30歳を過ぎてなりゆきで…

NHK総合テレビ6月20日、「川の光」

原作があり、同じ題名で松浦寿輝の児童文学である。本になったのは2007年だ。川を住みかとしていたクマネズミの親子が、河川工事で追われてしまい、新天地を求めて旅に出る。これをNHKが「SAVE THE FUTURE」という環境番組キャンペーンの一環としてアニメ…

六〇年代や七〇年代を語る三冊

初期の吉本隆明をまとめて読んだとき、もう具体的には思い出せないが、批評と批評の間で言ってることが矛盾しており、何度か戸惑った。すが秀実『吉本隆明の時代』(2008)はそれを、六〇年代の論戦を勝ち抜くための戦略的な変わり身として分析してくれた。…

群像1月号、松浦寿輝「川」

1993年の第四詩集『鳥の計画』の後書で、松浦寿輝は『吃水都市』ほかの詩集が「数年のうちに刊行されるだろう」と述べている。実際は昨年の暮にやっと『吃水都市』が出た次第である。何年も第五詩集を私は待ち、ある日、松浦が小説家に転向したのを知った。…