睦月の一番、「群像」1月号、松浦寿輝「塔」

 平岡ものである。昨年一月号の「川」については前に書いた。ほか「新潮」七月号「鏡よ鏡」がある。昨年の文芸五誌に載った平岡ものはこれが全部だ。三作目ともとなると、私も読み慣れてきた。もう市ヶ谷の事件と関連させて読んだりはしない。それでも、「川」を読んだときに、「主人公の思考は、事件以前の源流にさかのぼろうとはせず、事件だろうと何だろうとすべて終わってしまった、と思うことにつきる」と述べた点は変わらない。この意味で、七〇年代がポストモダンの始まりと考えれば、主人公の人選は最適であろう。
 すべて終わってしまった平岡の関心はもうかつての「太陽と鉄」ではなく「月光と骨」である。「わたしがこの頃思うのは、そこにいると月の光がこっちの躯に、骨に、ひたひたと沁みてくるような、そんな場所がこの世にあるのか、ないのかということなんだ」。
 そんなことを若い建築家と語るうち、この建築家が塔を提案するのだ。下界と切り離された「宙に浮かんだ<繭>みたいなもの」を。平岡は興味をそそられ、場所の選択も含め、設計や建築すべてを依頼する。この建築家や塔にモデルが存するのかどうか、私には知識が無い。とにかく塔は完成し、平岡を深い満足が満たす。慣れてきたのは私だけではなく、作者もだ。「川」ではほとんど通俗的な癒しとしか思えぬ結末だったが、本作はこの連作の主題を歌い上げるようにして終わった。
 すべて終わったと思い知る者は「素裸になって世界にさらされている者」である。そんな者の目には「今や生も倒錯であり死も倒錯だった」。こんなふうに本作の最後を要約しては不可解なだけだが、要するに詩的に完成されている。でもまだ書けるだろう、という期待もある。平岡もの、もっと続けてほしい。