「すばる」一月号、福永信「一一一一」

 題名はマンションの一一一一号室からきている。同じ趣向の「一一一三」が「文芸」春号に載っている。私は本作の方が好きだ。
 マンションのエレベーターで顔を合わせた男性二人の会話である。といっても、年上の方が一方的に語り、若い方はほとんど「ええ」「そうですね」の繰り返しだ。二人は初対面だ。しかし、年上は、相手の身の上はすべてお見通しである、といった風に語り続ける。実際は整合性の無いストーリーなのだが、そのすべてに若い方が相槌を打つのが可笑しい。矛盾点のいくつかは年上も気付くので、相手の相槌に嘘がまじっていることが、お互いに確認もされる。でも最後まで年上は自信を失わずに語り続け、ひと段落したところで、相手に励ましを贈って別れるのだ。その言葉は、苦労をしょい込んだ若者の人生を祝福するようでもあり、すがすがしい。おかげで、つじつまが合わずにとまどう私の読後感さえその気分が支配する。それがまた可笑しい。
 「群像」二月号「創作合評」でも取り上げられた。合評者は話の不整合をひとつも指摘しない。語られる男の妻について、田中和生は、一一一一号室から「逃げ出した女性」だと言ってるが、そうではなかろう。本当は彼女が一一一一号室の鍵を持っているのはおかしいのだ。ちなみに、妻が逃げ出したことに男が気づく場面もおかしい。男が「毛布を取りに行った」ら家に誰も居ないことが発覚するのだが、この毛布を取りに行く事情は、もし路上に轢死体があったら毛布をかけねばならない、という仮定の上での話ではなかったか。
 と思ってると、他のブログでも、「きとんと謎が解き明かされる感じが最後に訪れる」とか(文学は面白いのか)、「ぼくが今まで読んだ福永さんの小説で一番わかりやすくて、途中の転換や飛躍まで含めて、すっきり、きっちりと決まっている感じ」(偽日記@はてな)とか、むしろ、不整合を指摘する私の方が少数派らしい。私が勘違いしてるのかなあ。福永信に訊いてみたい。(「きとん」ママ)