島田雅彦『悪貨』

島田雅彦について、「一作でもいいから、その才能・資質にみあう形で小説を完成してもらいたいものである」と、福田和也は『作家の値うち』に書いた。それから十年たった。相変わらず島田は大家っぽい未完の大器だ。傑作を書かないのは彼の作風なんだと、も…

詩、まとめて。

「現代詩手帖」7月号が文月悠光(ふづきゆみ)の特集だった。私はこの人の良さがあまりわからない。特集記事を読めば納得がいくかな、と期待したのである。結果、やっぱわからん。もちろん悪くはない詩人だ。「うしなったつま先」の冒頭二行「靴がない!/…

福永信『星座から見た地球』

A、B、C、Dという四人の子供の話を福永信はあちこちで書いている。このブログで扱ったものでは「午後」がそうだ。それらをひとまとめにした本が『星座からみた地球』である。小さいけど、装画と装丁を三十三人で担当した洒落た本だ。一頁弱かけてAにつ…

城林希里香『Beyond』

書店で久しぶりに写真集の棚をのぞいてみた。今年のものでは、藤岡亜弥『私は眠らない』の表紙が衝撃的であった。祖父の頭部を真上から撮ったようである。悩んで、別の一冊、城林希里香『Beyond』を買った。画面のほとんどが空である。下の方、4分の1か5…

十年前の本を読んだ。

こんなものあいつに読まれたら恥ずかしい、そんなあいつの役を担当する者が居なくなってしまった、おかげでみんなくだらないものを平気で書けるようになった、という意味のことをどこかで蓮實重彦が言っていた。いま手元の本をざっと探して見つからなかった…

十年前の「文学界」を読んだ

ウェーベルンは最も好きな作曲家のひとりである。むかしは良い演奏のCDが少なかった。悪い演奏さえ少なかった。ブーレーズが監修して一九六七年から七一年にかけて録音された全集がやっとCD化されたのは一九八七年である。それもあまり満足できるもので…

中之島国立国際美術館、ルノワール展ほか

子供の頃に「イレーヌ・カーン像」が好きだった。新聞で複製の小さな広告画像を見かけたのである。ところが大きな画集で見ると、外国人の目鼻立ちは強烈で、髪はおどろおどろしく、どうもいただけなかった。そのうち中学高校になると、印象派より超現実主義…

如月の一番「新潮」2月号、福永信「午後」

今年の二月号は低調かと思ったが、先月の福永信「一一一一」を読んだ後では、「新潮」の「午後」に当然期待する。そして、とても良かった。まだ知名度の低い作家たちの中では私のイチ押しになった。偽日記@はてなによると、「「新潮」二〇〇七年十二月号の「…

「すばる」一月号、福永信「一一一一」

題名はマンションの一一一一号室からきている。同じ趣向の「一一一三」が「文芸」春号に載っている。私は本作の方が好きだ。 マンションのエレベーターで顔を合わせた男性二人の会話である。といっても、年上の方が一方的に語り、若い方はほとんど「ええ」「…

1月号の閑話。

応援してる新人がふたり(さんにんか)、対談したりインタヴューを受けたりしている。どっちも相手がぱっとせず、さえない内容だが、最近の新人としてはこんな半分素人っぽいのがいいんだろう。簡単なメモとして記しておく。 ひとつは「すばる」一月号で藤野…

『1Q84』まつり続(その1)、「新潮」9月号

「新潮」八月号と九月号に福田和也「現代人は救われ得るか」が載った。九月号には安藤礼二「王国の到来」も載った。 いろんな書評を読んだので、それらのパターンも見えてきた。たとえば、青豆の行う正義は人殺しであって、リーダーの悪と大差無いことを指摘…

『1Q84』まつり「群像」「文学界」8月号

八月号は「群像」と「文学界」が『1Q84』の特集を組んでいる。前者は安藤礼二、苅部直、諏訪哲史、松永美穂の座談会と小山鉄郎の小論。後者は加藤典洋、清水良典、沼野充義、藤井省三の小論である。ほかにも、河出書房が斎藤環や四方田犬彦など三十六人の発…

すばる3月号、藤野可織「いけにえ」

昔の私は評論を読むのが楽しくて文芸誌を読んでいた。たとえば、いま私の書棚に並んでいて思い出せるのだけでも、1985年から「群像」で連載された柄谷行人「探究」、同じく磯田光一「萩原朔太郎」、それから1986年の「新潮」に高橋英夫「疾走するモーツァル…

文学界1月号、水村美苗

水村美苗『日本語が亡びるとき』の冒頭三章が、出版に先行して昨年の「新潮」9月号に掲載されたとき、夢中で読んだ私だったが、ここまで話題になるとは思わなかった。十月に出て、こないだ書店で奥付を見たらすでに五刷であった。 この本には、ふたつの現状…