1月号の閑話。

 応援してる新人がふたり(さんにんか)、対談したりインタヴューを受けたりしている。どっちも相手がぱっとせず、さえない内容だが、最近の新人としてはこんな半分素人っぽいのがいいんだろう。簡単なメモとして記しておく。
 ひとつは「すばる」一月号で藤野可織。「小説を読んでくださった方に「幻想的な小説を書かれますよね」と言っていただくことがよくあります。でもそんなつもり全然なくて、むしろリアルなことに照準を合わせて書き進めていくと、しぜんに恐竜や悪魔が出てくるんです。だから、私にとって彼らは異質なものというより日常の一部だという感覚が強いのかもしれません」。
 不思議なことが違和感無く「日常の一部」として受け入れられていく、というのは川上弘美「蛇を踏む」(1996)ほかたくさん例がある。いつ頃からそんな小説がはやるようになったのか。一九九三年の「海燕」で沼野充義が言及したのを受け、「毎日新聞」十二月の時評で川村湊がそうした傾向の流行を解説している。ただ、詩を含めていいなら、私の実感としては平田俊子ラッキョウの恩返し』(1984)がもっと早い。さて何年までさかのぼることができるだろう。安部公房までいってしまうと「日常の一部」よりは「日常の裂け目」だし。そうそう、川上弘美といえば「群像」一月号の「小鳥」が悪くない。
 もうひとつは「文芸」春号で大森兄弟。聞き手は香山リカで、この兄弟の仲がずっと良好なわけがないという確信でもあるのか、終始ほとんど仲間割れの因子ばかり探っている。対する兄弟側は互いの信頼関係をたくさん例を挙げて強調する。まるで芸能レポーターと新婚芸能人のようだった。兄弟の文学観がまったく話題にならないインタヴューである。
 弟「書いたものを兄に見せて「ちょっとびっくりさせてやろう」とか「笑わせてみよう」とか、そういう気持ちで書いていました。兄は兄でそれを書き直して「弟をびっくりさせてやろう」って」。兄「小さいときにドアの隙間から変な絵をさし入れたりして、互いにちょっかいを出したりしていたんですが、そんな感じですね」。
 ふたりの作風に違いがあるのか、たとえば風景描写と心理描写などによって執筆を分担しているのか。弟「いえ、特に意識して分けているわけではないんですけど。二人の中ではその箇所をどちらが書いたかというのは、もちろんわかる部分もあります。ただ半分くらいは自分たちでもわからない(笑)」。兄「ゴールは決めないですね。まず二人で「だいたい、こんな感じ」ってくらいの話をしますが。今回の作品(注、『犬はいつも足元にいて』)を書き始めたのは僕だったんですが、まず三枚ぐらい書いて、その後からは交互に書き合って、その繰り返しですね」。
 「半分素人」で、ついでに書き足す。「文学界」一月号にわざわざ「特別エッセイ」と銘打って、よしもとばなな「人間はすごいな」が掲載されている。ド素人の文章だった。武者小路実篤だって脱帽するぜ。この人のエッセイは一生このままなんだろう。この凡庸さ素人臭さも現代文学の特徴だけれど、彼女が開祖だろうか。なら偉い。