「新潮」1月号の対談ふたつ

 いろんな二月号がぱっとしないので、積んだままの一月号をゆっくり読める。話題になった「新潮」の対談二つを。ひとつは大江健三郎古井由吉反戦反核の作家と内向の世代が語り合う、というのは私には違和感があったけど、古井の対談集を探したら前にもあった(『小説家の帰還』1993所収)。中上健次が亡くなったほぼ半年後のだ。大江が、「中上さんへの追悼の言葉を読んでいると、あらゆる雑誌のほとんどの文章がセンチメンタルに書いてある」と言うのを受けて、古井は、「感情と言うものをおろそかにし過すぎた罰として、ちょっと行き詰まると感情がもろくなる」と返している。達人の応酬である。今回も、詩の話題が死の話題になり、だから『ドゥイノの悲歌』の話題になる、それはわかるけど、「リルケが予感したのは調和ある調べのはずなのだけど、僕らにとっては不協和音かもしれません。でも、それはもう今に至っては覚悟しなくてはいけないことなのです」と言う古井の境地は、私には死ぬまで近づくことはできないだろう。そんなふうに尊敬できる文学者がいる、というのはありがたいことだ。
 断片的になら理解できそうな言葉はあって、そこを味わうことにする。たとえば、大江が、「小説というのものは、もともと過去のことを書いていた。ところが、古井さんは小説で現在のことを書こうとされている」と言う。見破られて古井はドキッとしたかもしれないが、すんなりと、「確かに小説は本来は過去のことを書くもので、その証拠に過去形を使うととても書きやすいですよね。自分の文体はどうしてこう不安定なのかと問えば、半過去や現在形が多いからだと気がつきます」と認め、「なんとか始まりに至る現在を全体として描けないものか、作り出せないものかと願うのです」と打ち明ける。ほか、小説の発生源として、古井が裁判の弁明書を挙げたあたりもハッとさせる。新訳の出たカフカ『訴訟(審判)』を読みたくなるではないか。
 もうひとつは東浩紀平野啓一郎。これは先月にもふれた。今回引用したいのは、『クォンタム・ファミリーズ』の主題が『存在論的、郵便的』以来の問題であることを、浩紀自身が説明している部分だ。

 一方において僕たちは無数の可能性の世界を想像することができ、他方において一回の生しか送れない。普通はどっちかが大切だってことになるわけですが、それをもう少し上のレベルで統合できないか。今回の作品で言えば、さっき言ったみたいに単純に並行世界を書いたつもりではない。むしろ、人はどうしても並行世界があるように感じてしまうし、そんな錯覚によって人生が変わってしまうこともまた真実だ、そういう意味で可能世界があることとないことは等しいのだ、という寓話を書いたつもりです。

 前に佐々木敦による『存在論的、郵便的』の要約を、「いまのぼくがほんとのぼくなんだ」という幼稚な自己肯定にしかつながらない通俗思想、として紹介した。私自身は、どの並行世界の自分も自分なんだ、という説明を探しているところだ。浩紀の考えてることは両者の統合ということらしい。とても興味深いが、よくわからない。たぶん、啓一郎もわかってない。「私でもわかるよう、もっと説明してください」と頼んでほしかったが、まあ、口が裂けても言えないよね。
 二人は仲良く話してる。どっちも大人になった。浩紀が啓一郎の新作『ドーン』を「評価しています」なんてほめている。デヴュー作『日蝕』に対しては、「正直言って僕は彼の小説はダメだった」とか、「僕のみるかぎり、彼は文学にも哲学にも「無教養」なんで」とか、書いてたのだ(「存在的、広告論的」第二回、1999)。もっとも、このかつての批評は当時の鋭い状況分析を含んでいた。そのうちまた取り上げるだろう。