「新潮」十一月号、長谷川郁夫「吉田健一」(第一回)

吉田健一はなかなか読み切れない。文章が読みづらくていけないのだ。たまに読むと10/03/14 に書いたように、私は感激する。長谷川郁夫が彼の評伝を「新潮」で連載し始めた。来年の生誕百年に合わせたのだろう。長谷川は小澤書店の社長だったから吉田と付き合…

城林希里香『Beyond』

書店で久しぶりに写真集の棚をのぞいてみた。今年のものでは、藤岡亜弥『私は眠らない』の表紙が衝撃的であった。祖父の頭部を真上から撮ったようである。悩んで、別の一冊、城林希里香『Beyond』を買った。画面のほとんどが空である。下の方、4分の1か5…

閑話。

花村萬月なんて読むのは何年ぶりか。「文学界」八月号に連作「色」の第三回「黄」が載っていた。「もう十年ほど前になるだろうか。書家の提言がきっかけで、手書きか、ワードプロセッサかという論争がおきたと記憶している」。おお、十年前の話なら任せてく…

井上太郎『ハイドン106の交響曲を聴く』

昨年は埴谷雄高他の生誕百年であるだけでなく、ハイドン没後の二百年でもあったらしい。その記念としてこんな本が出ているのを知らなかった。ハイドンの交響曲の一曲ごとすべて、というより、一楽章ごとすべてに、素人向けの解説を付けてくれた親切な本であ…

卯月の一番、「新潮」4月号、橋本治「リア家の人々」

「思想地図」とかその周辺の評論を読んでいて不快なところは、いまの世の中をわかってる、という物言いである。そんなことできるわけないのだ。時代は事後にわかるものなのである。「新潮」四月号の橋本治「リア家の人々」を読む快感は、人々が時代をわから…

オルハン・パムク『白い城』(宮下、宮下訳)

一九八五年のトルコの小説が昨年の十二月に翻訳されて出た。舞台は十七世紀後半オスマントルコのイスタンブールだ。主人公が一人称で語る回想記である。彼はイタリア人だ。物語は、彼が海賊に捕われ、「師」の奴隷になるところから始まる。ただの奴隷ではな…

閑話(その1、逆説の消失)

二十数年ぶりに江藤淳『成熟と喪失』(一九七八)を読んだ。最初の方、安岡章太郎『海辺の光景』を論じたあたりである。いつまでも子離れできない母親が子を成熟させない、それが日本的な母子関係であると江藤は考えた。『海辺の光景』は格好の素材だ。ただ…

「群像」1月号「戦後文学を読む」第二回、武田泰淳

偶然で、年末から武田泰淳に関するものを読む機会が重なっている。すでに二回書いたとおりだ。ほか、古本屋で見つけた『近代文学の軌跡』(1968)がある。現代文学者に関する「近代文学」の座談会を集めた二巻本だ。その第六回が武田泰淳である。本多秋五や…

新潮4月号、アジアに浸る、第七回

SIA(サイア)という九州大学のプロジェクトがあるそうだ。簡単に言うと、高樹のぶ子がアジアの十ケ国を訪れて現地の文学に触れるものだ。〇六年に始まってすでに七ケ国が済んでおり、「新潮」では、高樹の交流した作家と高樹の作品を解説付きで掲載している…

2月号、新潮、橋本治「巡礼」、群像、吉村萬壱「不浄道」

私が以前に文芸誌をよく読んでいた二十年ほどの昔は、ちょっと現代的な感じを出そうとしてる小説には、ゲイと右翼がよく登場していたものだ。これからの小説に流行るのはゴミ屋敷、部屋を汚す女かもしれない。楊逸「ワンちゃん」にもちらっと出てくる。そん…