2月号、新潮、橋本治「巡礼」、群像、吉村萬壱「不浄道」

 私が以前に文芸誌をよく読んでいた二十年ほどの昔は、ちょっと現代的な感じを出そうとしてる小説には、ゲイと右翼がよく登場していたものだ。これからの小説に流行るのはゴミ屋敷、部屋を汚す女かもしれない。楊逸「ワンちゃん」にもちらっと出てくる。そんな小さじ少々の使用例が増えるのではないか。思いついて1971年の古井由吉「杳子」をざっと読み返したが、杳子は風呂に入らないものの、彼女の部屋は特にきたなくなかった。二月号の文芸誌では「新潮」の橋本治「巡礼」と「群像」の吉村萬壱「不浄道」の家や部屋が全面的にきたなかった。気になった次第である。
 現実のゴミ屋敷ができる理由はいろいろらしい。代表的なのは、屋敷の住人が他人の捨てたものを拾い集めて持ち帰り、それが家からあふれるほどの量になってしまう例だ。「巡礼」は、このタイプに文学的な収集動機を味付けしたものである。人生の負け組の主人公忠市が、ある日、道端に捨てられた玩具を取り上げる。それが「カタ、カタ」と「懐しい音を立てて鳴った。忠市は、なにかを思い出しかけた」。これがゴミ屋敷化の始まりらしい。
 私が連想したのは郵便配達夫シュヴァルである。道でふとつまづいた石に見入ったのが、彼のきっかけだった。そこが似ている。が、彼のは確固たる建築への意志にもとづいた創造行為だった。対して忠市は、「自分がなぜゴミを集めるのか。それは忠市にも分からない」。無意味な行為かもしれない。けど、それを「認めてしまったら、一切が瓦解してしまう。遠い以前から、自分の存在は無意味になっていて、無意味になっている自分が必死になって足掻いている」。簡単に言ってしまえば、「杳子」の昔からある自分探しだろう。私がこの小説を文学的だと思うのはそこだ。私は、こうした小説こそ、シュヴァルの石や忠市の玩具に相当するゴミではないか、という発想を持ちたい。
 「不浄道」の主人公は過激にした杳子のような女性だ。杳子には潔癖すぎる姉が居り、「不浄道」の主人公には同様の母が居る。また、杳子には「杳子」の主人公が居り、「不浄道」の主人公にはウィルスンが居る。前者は類似、後者は好対照だ。姉や母への反感は世間への不快感に等しい。その閉塞の突破口を「杳子」の主人公とウィルスンは求められる。しかし、「杳子」の主人公は杳子の同伴者であり理解者である。対して、ウィルスンは超越的な聖者なのだ。生半可の反発ではとうてい彼の高みに到達することはできない。いきおい主人公は類例の無い過激な不浄道を突き進むことになる。
 結末で彼女の修行物語はスカッと自爆する。彼女はそれをものともせず、「私は元に戻りたくない。それが仮令煩雑さに満ちた窒息空間であったとしても、ずっとずっと先の方へと進んでみたい」と述べる。物語を突き破っても人はまた物語に取り込まれてしまうのかもしれない。そんなことはよくわかってる彼女なのである。
追記(10/06/19)。一年ぶりに読み返してわかったけど、主人公が最後に小説を書き続けることが大事なんだ。つまり、きたない生活は不浄道ではない。文学が真の不浄道なのである。主人公は最後にやっとその境地にたどりついた、という物語だ。そう思うといささか興ざめであるが。