文学界2月号、鹿島田真希「パーティーでシシカバブ」

 柄谷行人が、「最近の若手批評家」の傾向として、「他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない」と述べている(『近代文学の終り』2005)。東浩紀などが典型だろう。この内面性の無さが近代文学の終焉をもたらす、というのが柄谷の説だ。
 鹿島田真希「パーティーシシカバブ」の主人公は大学生で、意識の在りようがまさに柄谷の言う「最近の若手批評家」だった。最初っから最後までありふれた現代の若者言葉を連ねた内面の独白体の小説である。現代哲学や現代文化について語るわけではない。しかし、その内容が、とことん他人の言動への批評で成り立っているのだ。そして、主人公自身としては特に何をしたいというものも無く、つまり「まるで内面性がない」のである。他人への反応だけで書き連ねられるから、小説は、主人公がいきなり呼びかけられて始まり、だらだらと続いて、何となく終わる。読んでいてつまらないが、そこを非難するのは的外れだ。そんな当世書生気質を作者は書いたのだから。
 前回の更新で川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」を書きながら、「パーティーシシカバブ」についてそんなことを考えていた。どちらも似た年頃の女性の一人語りだからである。内面の無さも両者に共通している。それだけに、「シシカバブ」の現実にどこにでも居る人間に対して、「先端で」の主人公の特異気質が際立った。「先端で」の彼女はひたすら自分を語る。
 もっとも、「パーティーシシカバブ」の主人公は昔から居た、とも言える。柄谷の指摘は、ハイデガーが「他人への気づかいに生きるひと」という言いかたで八十年も前に述べたことと同じだ。ただ、現代はそんな生き方を恥じなくなった。この小説を読んで感じたことである。また、「群像」2月号の青山七恵「実習生豊子」は「シシカバブ」と対照的な手堅い作風であるが、以上に述べた点では主人公と人物像は似ており、その感をますます強めた。