第14回中原中也賞、川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』

 川上未映子『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』が中原中也賞をとった。大好きな一冊に光が当たってうれしい。収録作の中でも「ちょっきん、なー」がオススメである。でも、あれって詩集だったんだ。萩原朔太郎においてすでに詩と散文は見分けがつかなかくなっていたのだから、このとまどいはそのままにしておこう。折り目正しい日本語で書かれた井上靖散文詩は詩だと思う私の感性には、川上未映子が風変りに詩的な日本語を書いたところで、あれは小説である。
 彼女が詩を書いたらどんなに素敵だろうと思ってCD『頭の中と世界の結婚』を買った。歌詞を一読して、これは詩である。対して彼女の小説は、09/01/28 に書いたように、骨格が詩ではない。かなりの部分を一般の散文に書き直せるはずだ。とはいえ、小説の方が詩的で奇抜だ。彼女の歌詞が詩であったとしても、期待したそれがほとんど無い。強いてひとつ選べば、「麒麟児の世界」の"麒麟児"という語を見つけたくらいだろうか。詩が詩であるわりには詩的でないというのは、多くの詩に言えることである。
  すべてが過ぎ去る
  人々の感嘆の声、声
  匂いは溶け、目は開いてすべてが輝く
  麒麟児のあなたが望むなら 叶うわ
 『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』の収録作の多くは心内の独白である。表題作から引用すると、「わたしが9年前に抜いたでっかいでかい親知らずを吸ったり触ったり検分することのそわそわしさをわたしは指先にあると思うのです、たわしよろしゅう縮んだ髪の毛をわたしが物心ついたときから追いかけてるこの情熱は髪の毛にあるんか、やっぱりこれも指先にあるんか、毛根や毛穴を見てると息がふわあっとあつくなってゆく、ぷっと爪に挟まれて飛び出る脂肪、ああと、あつく、女子の先端に話しかけるわ」。
 語り手には、自分だけの感受性が書かれるべきことのすべてである。言葉を連ねて、なんとか自分だけが感じているある感触を言い当てようとしている。彼女が関西弁を使い、女子の先端にこだわるのは、関西人である、女性である、というアイデンティティを求めてるのではなく、一般人ではない、という特殊な自分を提示しているのである。奇異な語法も、多くの詩人が試してきた言語それ自体の可能性を追求する言語実験ではなく、どんなありふれたことでも変わった言い方にしないと失われてしまう特殊性の提示なのである。
 趙州に、ある庵主は拳を立てた。別の庵主も同じことをした。趙州は前者を認めず、後者には悟った禅僧に向ける敬意を払った。『無門関』の第十一則にある。同じ行為で前者と後者のどこに違いがあったのか。そう問うては謎は深まるばかりだ。しかし、そこに川上未映子の文学がある。万人と同じ「きもちいい」では、誰のものでもない自分だけの快感は表現されない。よって、「先端でさすわさされるわそらええわ」と書いて、他との違いを出すしか無い。すると、彼女にとって自分はますます意味不明の表現体と化し、謎が謎を生む。哲学では解消すべき、そして解消可能とされるジレンマだが、これは文学である。