柄谷行人

六月一七日「週刊読書人」、柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

六月一七日の「週刊読書人」で柄谷行人のインタヴュー「反原発デモが日本を変える」が載ったのを知らずにいた。ネット上でも複数のページで見られるようである。私は柄谷行人の公式ウェブサイトで読んだ。福島第一原子力発電所の事故があってから、若い人の…

「群像」十月号、柄谷行人、「群像」と私

「群像」が六十五周年ということで、何人かのエッセイを載せている。柄谷行人のが、以前私の書いた「編集部の都合」を詳しく説明していた。一九七三年に「小説現代」の編集長だった人が「群像」の編集長になったんだそうだ。「この人事は、戦後文学、純文学…

十年前の「群像」を読んだ。柄谷行人と村上龍の対談。

十年前の一月号には「群像」と「文学界」が柄谷行人の対談や鼎談を載せた。どちらも良い。NAM を始めた頃で、柄谷の発言は意気軒昂としている。それとはあまり関係無い部分を引用しよう。もちろん、NAM を始めたという文脈で語っていることではある。「群像…

島田雅彦『悪貨』

島田雅彦について、「一作でもいいから、その才能・資質にみあう形で小説を完成してもらいたいものである」と、福田和也は『作家の値うち』に書いた。それから十年たった。相変わらず島田は大家っぽい未完の大器だ。傑作を書かないのは彼の作風なんだと、も…

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第二夜(その2)

ルターが『聖書』を「読んだ」というのは有名な話だ。私が初めて意識するようになったのは柄谷行人「テクストとしての聖書」(一九九一)だった。いまは『ヒューモアとしての唯物論』で読める。ややこしいことを言っている。 ひとびとが聖書を読みはじめたの…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(3)

最後に繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。終りをもたらす「敵」の佐藤友哉のイメージはこうだ。 「蝮のすえ」には、童貞臭がしないのです。(略)登場人物の年齢や関係、活動理由などは明らかに「大人」のそれで、青春汁の薄…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(2)

繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。ある作家の本が本屋から消えれば、その作家の文学は終わった、それに尽きる。柄谷行人「近代文学の終り」冒頭と比べてみよう。 今日は「近代文学の終り」について話します。それは近代文学…

柄谷中上『小林秀雄をこえて』(3)

以下、中上健次の物語論の引用である。彼は物語を「法・制度」として考える。実は、最も重要なその点はこの長い引用でも紹介しきれない。本書よりは、講演「物語の定型」や蓮實重彦との対談「制度としての物語」などを参照すべきだろう。また、蓮實の『枯木…

柄谷中上『小林秀雄をこえて』(2)

私は中上健次を真面目に読んだことが無い。ざっと目を通してるだけなので、彼が物語を守ろうとしているのか壊そうとしているのか、よくわからなかった。久しぶりにこの本を読み返し、次の言葉に出会えば答は明瞭である。中上 いまのように人がうたいまわって…

柄谷中上『小林秀雄をこえて』(1)

たくさんの本を実家に置いている。それを読むのが帰省の楽しみである。この夏は柄谷行人と中上健次の『小林秀雄をこえて』(1979)を読んだ。対談と評論みっつを載せた本だ。村上春樹が『1Q84』を解説してるインタヴューをいくつか読んでるうちに、物語が気…

十年前の「群像」1月号を読んだ。

李恢成「地上生活者」の連載第一回が載っていた。三浦雅士「青春の終焉」も連載第一回だ。さて、十年後の「群像」一月号と比べよう。「地上生活者」はまだ連載中である。書き続けた人よりも、読み続けた人を誉めたたえたい。いればの話だが。そして、三浦は…

六〇年代や七〇年代を語る三冊

初期の吉本隆明をまとめて読んだとき、もう具体的には思い出せないが、批評と批評の間で言ってることが矛盾しており、何度か戸惑った。すが秀実『吉本隆明の時代』(2008)はそれを、六〇年代の論戦を勝ち抜くための戦略的な変わり身として分析してくれた。…

すばる5月号「文芸漫談」奥泉光いとうせいこう「後藤明生『挟み撃ち』を読む」

私にとって、後藤明生というと『挟み撃ち』(1973年)の作家であり、なんでそうかというと、蓮實重彦の熱烈な頌があるからである。1975年初出で後に『小説論=批評論』所収の「『挟み撃ち』または模倣の創意」がそれだ。一言だけ引用すると、主人公の「わた…

中央公論5月号、西部柄谷対談「恐慌・国家・資本主義」

西部邁と柄谷行人の対談を読んだ。二人の経歴をくだくだ言う必要は無かろう。柄谷はこれまでの持説を話題に応じて引き出している。それらのほぼすべてに西部が同意して、「柄谷さんとぼくはたぶん感覚が似ている」と述べていたのが印象的だった。「表現は違…

新潮昨年8月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第二回

村上龍がホスト役を務めたテレビ番組「Ryu's Bar 気ままにいい夜」の最終回に柄谷行人が出た。1991年3月である。最後の数分の話題が「生まれ変わったら何になりたい?」だった。柄谷は、私の記憶そのままに再現すると、「何にも生まれ変わりたくない。いま…

文学界2月号、鹿島田真希「パーティーでシシカバブ」

柄谷行人が、「最近の若手批評家」の傾向として、「他人がどう思うかということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない」と述べている(『近代文学の終り』2005)。東浩紀などが…

早稲田文学2号(08年12月)、特別付録DVD、川上未映子「戦争花嫁」朗読

ずっと昔に授業で聞いただけで検証してはない。大正の始まるころの新聞は漢文調が主だったそうだ。例外はあって、それは新聞小説だった。そして、その文体がだんだん他の紙面に広がって現在のようになったそうである。 ダンテがイタリア語を作り、ルターがド…

ETV特集、2009年1月4日、吉本隆明 語る 〜沈黙から芸術まで〜

吉本隆明『言語にとって美とは何か』(1965)は最初の三章がとても面白く、たいへんよく読んだ。論理的に大きな欠陥を持つ本ではある。無関係な二つの言語観が混在しており、それを作者が自覚せずに一つの言語理論として語るものだから、読者は混乱してしまう…

文学界1月号、水村美苗

水村美苗『日本語が亡びるとき』の冒頭三章が、出版に先行して昨年の「新潮」9月号に掲載されたとき、夢中で読んだ私だったが、ここまで話題になるとは思わなかった。十月に出て、こないだ書店で奥付を見たらすでに五刷であった。 この本には、ふたつの現状…