「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(3)

 最後に繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。終りをもたらす「敵」の佐藤友哉のイメージはこうだ。

 「蝮のすえ」には、童貞臭がしないのです。(略)登場人物の年齢や関係、活動理由などは明らかに「大人」のそれで、青春汁の薄さは認めなければならないでしょう。(略)童貞臭のなさは口当たりの良さにつながり、若者との無関係さにもつながります。そうなってしまうと、「蝮のすえ」はすぐさま文学に回収され、「群像」の創作合評に出てくるような偉い作家や学者に評価され、簡単だった文章に難解な解釈がトッピングされ、僕たちの知らない場所に片づけられてしまいます。
 そう「いつものアレ」ですよ。
 この業界で良く見られる、「いつものアレ」ですよ。
 語るだけ語り、飾るだけ飾り、でも作業としてはそれだけで、ほとんどが作品に迷惑をかけるだけの、誤解を深めるだけの、敬遠させるだけの「いつものアレ」を、今回の連載においては敵として設定しています。
 学術的で政治的で歴史的で呪術的な言葉を並べ、サークル的な派閥的なアプローチをつづけ、若者や初心者を弾くような言葉を駆使する「いつものアレ」とは、対極にいます。

 「いつものアレ」って何さ。円城塔は、「創作合評のことでよろしいのではないでしょうか」と述べている。ええええっ?「偉い作家や学者」「難解な解釈」「語るだけ語り」「飾るだけ飾り」「学術的で政治的で歴史的で呪術的な言葉」、私の知るかぎり、そんな「創作合評」は一回も無い。今回の鴻巣友季子なんて「蝮のすゑ」を読みもせずに出席してるほどで、そんな気楽なおしゃべりが「創作合評」の特徴である。佐藤のイメージどおりであることを、実例を挙げて証明するのは不可能だ。他に思いつく「いつものアレ」の候補は新聞時評や主要文学賞の選評であるが、これだって適応例を挙げて証明するのは不可能だ。また、私がこの二年近くで読んだ文芸誌の評論すべてを思い返しても、「難解な解釈」はあまり無かった。少なくとも、それらが「作品に迷惑をかけるだけの、誤解を深めるだけの、敬遠させるだけの」影響力を発揮したとはとても思えない。
 ところで、佐藤は、野間宏の文学が残ってないのに対して、武田泰淳は残ってることを指摘している。残った理由に泰淳の文体の読みやすさを挙げている。しかし、作品が残るかどうかは、そんな作品の中身の事情では決まらない。野間と泰淳に関しては、前世紀において柄谷行人が前者にはあまり言及せず、後者は高く評価していたことが少なからず作用したと思う。そう言えば、前世紀の柄谷なら、当時における「いつものアレ」の例に選ばれてもわからないではない。もちろん柄谷が評価したのは文体の読みやすさなどではなかった。かつての「アレ」によって佐藤は武田泰淳を認知しているわけで、まあ皮肉なことだ。