「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(2)
繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。ある作家の本が本屋から消えれば、その作家の文学は終わった、それに尽きる。柄谷行人「近代文学の終り」冒頭と比べてみよう。
今日は「近代文学の終り」について話します。それは近代文学の後に、たとえばポストモダン文学があるということではないし、また、文学が一切なくなってしまうということでもありません。私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもう無くなってしまったということなのです。(略)文学が永遠だと思われた時代があったのはなぜか、そして、それがなくなったことは何を意味するのか、ということは、よく考えてみる必要があります。
本屋での消滅よりは、小学校や大学の授業での小説の消滅が、柄谷の問題だろう。夏目漱石が百年後の書店で売られていたとしても、終わったものはとっくに終わっているのだ。対して佐藤友哉はこう書く、「時の流れに勝利しなければなりません」、「せめて百年後の文学に自作を食いこませる方法を考えたところで、罪にはなりませんよね」。佐藤の欠陥と特徴については、「群像」十月号「創作合評」での鴻巣友季子と円城塔の発言が参考になる。鴻巣 古典や名作というのは、時間と無数の解釈を経て、淘汰され残ったものにつけられる演繹的な名前なわけですから、最初から残ろうとして書くこと自体が、何となく矛盾しているような気がする。だれもそんなことはできないでしょう。「古典を書く」ことはできないんですよ。作品は残すと言うより残るものではないですか。
円城 それは正論なのですが、特殊能力者的作家サイドではそういう意見はごく普通にあるのではないでしょうか。残るものを書けるはずだし、書く方法があるはずだと思う人も当然いる。僕は思わないんですけど。