小島信夫『漱石を読む』(一九九三)、佐藤泰正『これが漱石だ』(二〇一〇)

ひさしぶりに『明暗』を読みたい、なんて思いついた。どこが日本近代文学の最高傑作なのか、私にはよくわからん小説である。『道草』の方が素敵ぢゃないの、と思ってきた。いますぐ読み返したら同じ感想を得るだけだろうから、ちょっと予習しよう。昨年に出…

詩、まとめて。

「現代詩手帖」7月号が文月悠光(ふづきゆみ)の特集だった。私はこの人の良さがあまりわからない。特集記事を読めば納得がいくかな、と期待したのである。結果、やっぱわからん。もちろん悪くはない詩人だ。「うしなったつま先」の冒頭二行「靴がない!/…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(3)

最後に繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。終りをもたらす「敵」の佐藤友哉のイメージはこうだ。 「蝮のすえ」には、童貞臭がしないのです。(略)登場人物の年齢や関係、活動理由などは明らかに「大人」のそれで、青春汁の薄…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(2)

繰り返せば、文学の終りを口にする割りには終りのイメージが貧しい。ある作家の本が本屋から消えれば、その作家の文学は終わった、それに尽きる。柄谷行人「近代文学の終り」冒頭と比べてみよう。 今日は「近代文学の終り」について話します。それは近代文学…

「群像」9月号、佐藤友哉「ハサミムシのすえ」(1)

昨年に佐藤友哉「デンデラ」が芥川賞の候補にならなかったのは意外だった。けっこう話題になったのに。作者本人も思うところがあったに違いない。芥川賞計画なんて始めている。芥川賞の傾向を分析し、ネットを中心に意見や発想を募集して小説の大枠を決め、…

投壜通信まだまだまだ

この話題を終えるのは結構大変なのかもしれない。また無視できない説が見つかった。「ユリイカ」五月号が『クォンタム・ファミリーズ』の小特集を組んでおり、その中の佐藤雄一「QF小論」によると、投瓶通信はマンデリシュタームの評論「対話者について」…

佐々木敦『ニッポンの思想』(その2)

この本には、私の知らない話、忘れてた話、軽視してた話、がたくさんあって、それが役に立った。一例だけ挙げておこう。 「週刊朝日」の緊急増刊「朝日ジャーナル」(04/30)に、浅田彰と東浩紀とほか二名の座談会が載った。ふたりの違いがハッキリする応酬…

佐々木敦『ニッポンの思想』(その1)

私は一九八四年から本を読むようになった。柄谷行人『日本近代文学の起源』(1980)がきっかけである。そのあとでバルトやフーコーやデリダを読んだが、"第一之書"のおかげで当時の私にとって、ポストモダンとは「近代という制度の批判」だった。ポストモダン…

皐月の一番、第19回日本詩人クラブ新人賞、斎藤恵子『無月となのはな』

初耳の賞だが、おかげで素晴らしい詩集と巡り合えた。新人賞とはいえ、すでに詩人には三冊目の詩集である。また、授賞式の写真の印象では五〇代後半のようだ。そうしたこともあってか、作品は見慣れた手法の組み合わせである。もともと私は、「新しい時代の…

現代詩手帖4月号、座談会「突破口はどこにあるか」

かつての「ユリイカ」も1969年になると六〇年代詩人の特集を組んだ。「現代詩手帖」も同じだ。四月号の特集は「ゼロ年代詩のゆくえ」である。水無田気流、中尾太一、蜂飼耳、岸田将幸、佐藤雄一の座談会を読んだ。本題の「突破口はどこにあるか」よりも「ゼ…

新潮昨年5月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第一回

昨年の「新潮」五月号から東浩紀は小説「ファントム、クォンタム」の連載をほぼ隔月で続けて、いま六回まで発表している。題名を訳せば、「亡霊、量子」か。作者のブログでは「あと連載2回で終わり」(09/02/27)とのこと。いまから読み始めて最終回までに…