小島信夫『漱石を読む』(一九九三)、佐藤泰正『これが漱石だ』(二〇一〇)

 ひさしぶりに『明暗』を読みたい、なんて思いついた。どこが日本近代文学の最高傑作なのか、私にはよくわからん小説である。『道草』の方が素敵ぢゃないの、と思ってきた。いますぐ読み返したら同じ感想を得るだけだろうから、ちょっと予習しよう。昨年に出た夏目漱石論をAmazon で検索したら、「小島信夫批評集成」第八巻と佐藤泰正『これが漱石だ』が、いちばんまともそうだった。
 小島のは『漱石を読む』だから本当は一九九三年に出たものである。彼の批評がいま出版され直す意義はよくわからない。小島の小説はたいした事件も無くだらだら続いて、話もしょっちゅう横道にそれたりする。そんなのがまあ、いま時評なんかでわりと好意的に扱われるタイプの小説であるのはたしかだ。そこが旬なのかもしれない。
 女を書く、という観点からまづ『明暗』を語り出す。この小説で描かれることは、大正時代のありふれた夫婦の、なんてことのない日常だ、と指摘する。「しかし、この小説ではその日常これすべて事件なのである」。やっぱりなあ、こんなふうに解説されると、漱石磯崎憲一郎の先駆けであるように見えてくる。そして、小島はひとまづこうまとめる、「日常的で風俗的ともいうべきこの延子の態度が、周囲のもの、あるいは作者から検証されるときに、一種の不安と不快に似たものさえかんじるのは、何かしら恐るべきものである」。
 小島は津田にいささか点がからい。「彼にだって、ちゃんとあるはずの、魅力的な部分が作者によって置き忘れられてしまったのは、ほんとにおかしなことだ」と言う。「つまらぬプライドだとか何とか、そういうことにこだわって、人間として一番大事なものに欠けている」とまで言う。見栄ばかり気にする、それが清子にふられた理由だろう、と小島は見ている。これを何度も繰り返して強調している。
 小島は長生きした。佐藤は長生きしている。今年で九四歳かあ。『日本近代詩とキリスト教』(一九六八)とか『漱石的主題』(一九八六)とか、私は好きだった。うーん、なに書いてあったかは思い出せない。とにかく敬意はある。さて、佐藤もお延に好意的だ。「この作品の魅力は、津田と同時にお延ですね。魅力ということでは、津田よりもお延の方ですがね」。津田に対しても、小島と同じように、彼が世間体ばかり気にしてるような点を指摘している。そのうえでこう続けるところが小島との大きな違いだろう。

 津田は確かにエゴイストである。お延に隠し事がある。いろんな企みもある。あるいは自分の体面なども突っ張って考えている。騙し、嘘、体面、しかし人間はそれだけの問題じゃないでしょう。(略)このように見ていくと、漱石のシンパシー、同情、共感はより深くお延にあるとしても、その存在論的な課題の〈闇〉を担っている者は、やっぱり津田だと私は思います。(略)ある章では、あの暗い病院の待合室の中で「手を額に中て」「黙祷を神に捧げるような」姿勢を無意識にとってる津田を描くところに出てくる。(略)つまり津田を描く作家漱石の眼が、ただ津田を俗っぽい人間としてだけとは見ていない。無意識に手を額にあてて、祈る姿勢をとっている津田を見逃してはいけないと言っているわけですね。

 佐藤の読みの方が深くそして古いと思った。私の好みは佐藤である。佐藤は江藤淳越智治雄柄谷行人漱石論を取り入れながら語っている。次はこれを読んでみよう。どれも古い古い漱石論だ。それを紹介するのは、もうこのブログの目的ではない。