二〇一〇年「すばる」十二月号、田中慎弥「第三紀層の魚」

 私の部屋には、読んでない本の塔が複数ある。読書量の低下は前にも書いたとおりだ。塔の中に昨年の「すばる」12月号があった。買ってたんだ。田中慎弥第三紀層の魚」と荻世いをら「筋肉のほとりで」を読むつもりだったのである。さっそく田中から読んだ。
 田中慎弥なら私は「蛹」や「犬と鴉」がお気に入りだ。奇妙で、特に前者が奇妙だ。それ以外の、作者の郷里や環境が素材だなあとわかる類のは退屈で、読んだらすぐに忘れてしまう。最後まで読んだかどうかさえ覚えていない。「切れた鎖」とか「実験」とかだ。後者なんて、自分の小説のネタにするため友人の人生を犠牲にしていいんだろうか、とか、そんな凡庸なことを読者に考えさせてしまう。
 「第三紀層の魚」は退屈種に分類される作品だった。内向的な小学生が主人公で、曾祖父が最後に死んでしまい、しんみりして泣いて、大人にひとつ近づいたなあ、おしまい、という、いかにも芥川賞の候補にふさわしい、型にはまった小説である。賞の選考委員の評も、「主人公の思考が小学生らしくない」とか、「大人しくまとまっていた」とか、落選作の型にはまった観があった。総理大臣も選考委員も、なるまでが大変で、なってしまえば言うことは普通の人である。困ったことに、作者はこの路線を続けていくつもりらしい。今月九日の「毎日新聞」にこんな発言が載った。

 「実験」(09年)などにも見られる明らかな文体の変化は、自身の内面の変化と一致しているという。「読者の支持をもっと得なければいけないと思ったので、意識的に読みやすくしました。一つの文章を短くする努力をしたつもりです」(略)「これまで内に閉じこもったような文体で書いてきましたが、一つの方向に進み続けると、行き詰まってしまう。なんとか外に自分を出さなければ、という危機感がありました。『第三紀層の魚』を書くことで、一つ息をつけたと思っています」(注、「(09年)」ママ)

 主人公は小学生とは思えぬくらい内向的だ。「一つの文章を短くする努力をした」ぐらいでは、「内に閉じこもったような文体」は治らなかった。「読みやすく」なったのは確かだが、それは文体よりも型にはまった物語のためだ。「実験」もその一例である。「なんとか外に自分を出さなければ、という危機感」をこんな方向で解消して、「一つ息をつけたと思って」いていいもんだろか。