二〇一〇年「すばる」十二月号、荻世いをら「筋肉のほとりで」

 ひとつめ、清潔や健全を究めると邪悪や醜悪が滲み出てくる。ふたつめ、現在とは別の世界や過去にあった可能性が頭から離れない。このふたつが小説でわりと流行ってる傾向である。どちらも読める代表は『1Q84』だ。そのずっと前から村上春樹はこの主題を扱ってきた。物語の批判と再生の両方を手掛けたこととあわせ、これが日本文学史における彼の重要性かもしれない。物語の問題は措いといて、最初のふたつが荻世いをら「筋肉のほとりで」にもある、と思った。もちろん、春樹の影響だなんて言うつもりはない。とにかく、この四点をおさえておくと、かなりの割合の現代小説が解説できてしまう気がするのだ。
 主人公真理枝は大学生で、やはり学生の尭(たかし、本文では正字)とほぼ同棲している。尭は「ついこのあいだまで、四谷の釣り堀で枝雀やクセナキスを聴くのが好きだと言っていた人物」である。「たとえば、コンビニのレジで、レシートは要りますかと尋ねられたとき」には必ず「あ」をつけて、「あ、大丈夫っす」とか「あ、いいっす」と「言っていた」。就職活動がうまくいってない様子だ。たしかにそんな感じの男だ。
 でもそれは「ついこのあいだまで」のことであり、「言っていた」という過去のことだ。尭はボディビルを始めてどんどん人が変わってゆく。そういう小説である。ビルを始めたのはちょっとしたきっかけでしかない。それが尭に別の世界を示し、過去にはあった彼の可能性をよみがえらせたのだろう。彼はどんどんのめりこんでゆき、ビタミン剤やプロテインの摂取に凝り、五〇キロのバーベルを買い、ジムに通う頻度も増してゆく。肉体がたくまくしくなるにつれ、尭は自信をもった男に変身してゆき、「あ」を付けなくなり、就職活動も順調であっさり内定を得てしまう。
 そんな尭に真理枝は違和感をおぼえる。これがこの小説の眼目だから、あまり書かずにおこう。「清潔や健全を究めると邪悪や醜悪が滲み出てくる」小説の一例である。グロテスクな結末になってゆくかと思ったところで、尭が我に帰って終わる。ちょっと気に入ったので、そこはネタバレしてしまおう。少しづつ生活が戻ってゆく。しかし、ひとたび変化をこうむっていれば、かつて「あたりまえ」だと思っていた生活の「あたりまえ」感は復元不可能である。最後に出てくる筋肉のほとりとは、ひとたび開いてしまえばパックリと開いたまんまの「別の世界や過去にあった可能性」のことだろう。