詩、まとめて。
「現代詩手帖」7月号が文月悠光(ふづきゆみ)の特集だった。私はこの人の良さがあまりわからない。特集記事を読めば納得がいくかな、と期待したのである。結果、やっぱわからん。もちろん悪くはない詩人だ。「うしなったつま先」の冒頭二行「靴がない!/私は嬉々として走り出した」なんて、おおそうきましたか、新手に襲われる快感があった。でも、「天井観測」の冒頭なんかにはっきりしてるけど、感覚は凡庸だと思う。
学校に行く意味はなかった。
朝七時一〇分
時計の針がおじぎをしたら
私は規則的なフローリングの木目を踏みしめて
パジャマのすそを引きずらなくてはならない。
空白の中、
私の足もとを木目が駆けぬけていく。
ゆっくりと目を細めてみたけれど
この身体で何ができるのか、何をするべきか
本当のことは誰も知らないようだった
朝の登校、登校前の情景。もちろん私は井坂洋子「朝礼」と比べているのである。すると、「この身体で何ができるのか、何をするべきか」なんてあからさまに書いてしまう凡庸さが目立つ。一八歳で中原中也賞かあ、将来有望だなあ、というのなら、『適切な世界の適切ならざる私』を何度か読んで、私もわかるまでになった。しかし、特集記事のみなさんは、年齢なんて関係無く素晴らしい、という御見解だ。それがぜんぜんわからない。
短歌を始めて詩をやめたのかあ、がっかり、と思わせた中村梨々が「現代詩手帖」の投稿欄にまた現れている。選者は川口晴美だから、相性も悪くないのではなかろうか。八月号の「クリームパスタの夜明け」を。
円周に沿って朝を抜け、太陽を背中合わせに日時計が、おはようおはよう。はじめの挨拶は自分へ、ふたつめはみんなへ。その声は身体の真ん中(お臍あたり)をくぐり、輪転機に迷い込んではぐれていく。
夕暮れて影を無くすけど、実は日時計は夜間も円周の見えない部分を動き続けており、夜明けとともに、すぽっとまた抜け出てくる。「闇を」でなく「朝を」抜け出る、と書くあたり、すきっとした朝のイメージだ。読み進めると、詩は午後になり夜になる。「展開が見事」(川口)。作風は穏やかで目立たぬ詩人ながら、検索するとけっこうファンが居るのもうれしい。「群像」九月号の随筆で岩阪恵子が阪田寛夫「マサシゲ」を紹介している。私は阪田寛夫なんて関心無いし、そもそも方言の詩って、「あめゆぢゅとてちて」でさえあざとさを感じてしまうのだけど、これはうれしくなった。全文引用する。
千早の城でな
正成さんは
真瓜 かぶりもて
ぼちぼちい行こか
と言やはりましてん
奥さん薙刀せたろうて
紀州ネルの腰巻しめて
連れもて行こら
と言やはりましてん
葛城山に雲が出て
寄せ手の兵隊傘さした
正成さんは
びっちゃりこ
河内弁だ。岩阪の解説によると、真瓜はまくわ瓜で「まっか」と読む。正成はそれにかぶりついている。「せたろうて」がわからなかった。「背負って」の意味かな。検索すると、やはりそうだった。