佐々木敦『ニッポンの思想』(その1)

 私は一九八四年から本を読むようになった。柄谷行人日本近代文学の起源』(1980)がきっかけである。そのあとでバルトやフーコーデリダを読んだが、"第一之書"のおかげで当時の私にとって、ポストモダンとは「近代という制度の批判」だった。ポストモダンの堕落したものがニューアカデミズムで、読む気もしなかった。九〇年代に入ると、飯田隆野矢茂樹永井均といった名が目立つようになる。英米系の分析哲学が新鮮だった。大森荘蔵の最晩年の著作もこの頃だ。当時の私が唯一とことん読んだ哲学書ウィトゲンシュタイン『論理的哲学論考』だった。昔の哲学ファンはあまり読まなかったはずだ。
 これが私の実感した八〇年代と九〇年代である。当然、佐々木敦『ニッポンの思想』には違和感がある。私も佐々木も大きく間違ってはいない。どちらも一面的だから食い違うだけだ。ただ、佐々木の方が「大きな物語」を語る。彼はポストモダンを「大きな物語の終焉」と考える流れで紹介しておきながら、そのくせ自分は日本の現代全体を舞台にした大きな物語を手放さない。これは佐々木に限らぬゼロ年代の評論家の傾向である。この本でも指摘されているが、彼らはたくさん売れたいのだ。だから、できるだけ大きな現代全体の市場を語らなければならない。しかし、彼らの言説どおりの市場などあるものか。
 いまどきの評論家の話は辻褄がわりと合う。しかし、無矛盾な言説が真理を伝えるとは限らない。本書に関しては、たとえば、柄谷行人を実は批判して東浩紀存在論的、郵便的』が書かれた、と著者は述べている。これ自体は間違ってない。柄谷も浩紀も読んだことの無い人は、きっとすんなり読んでしまうだろう。しかし、柄谷の論じた「他者」は「フツウの意味で『赤の他人』と言う意味で」あり、他者間にコミュニケーションが成立する「奇跡」は「実はごく日常的に何度となく起こっている」という説明は、著者の物語に都合の良すぎる凡庸化だ。また、

 彼は彼以外のものになれただろうし、今だってなれるし、これからだって幾らだってなれるのだが、それでも「今の彼」は「今の彼以外の彼」でだけでは絶対にありえない

 『存在論的、郵便的』は簡潔にこう要約された。しかし、「今の彼」を、それ以外の人生を歩んだ場合の「彼たち」からくっきりと区別させる指向が浩紀に強いとは、あまり私は思えない。それは09/07/04 で引用した彼の言葉から推測できよう。こうした要約を正しいとする解釈も可能かもしれない。しかし、「いまのぼくがほんとのぼくなんだ」という幼稚な自己肯定しか帰結しそうにないこの要約は、あまりに凡庸な物語である。だからこそこの本はわかりやすい解説書なのだ。わかりやすいのはわかりきってる物語の繰り返しだからである。ああ、でもそれが現代なのか。
 追記。 ここずっと浩紀ばかり読んでいる。彼の古いブログ渦状言論 の04/02/09 で、「自分にとってただ一つの現実であるこの世界を生きる、という立場」に強い親近感を表明している文章を見つけた。佐々木の解釈と近い。反面、『ゲーム的リアリズムの誕生』を読むと、似たような表現があり、それはもう少し複雑な意味合いを感じさせる。『九十九十九』を扱った「世界を肯定すること」のこんな部分だ、「現実と虚構が混在し、物語とメタ物語が混在し、キャラクターとプレイヤーが混在した、彼の世界そのものを肯定しようとしている」。重要なのは「混在」の意味合いなのである。そこが複雑なところで、佐々木の解釈はそれを排してわかりやすくした、『存在論的、郵便的』の通俗化だ。浩紀自身がこの線に陥る可能性があることもブログでわかる。きっと陥る、とは思うが、『存在論的、郵便的』の段階ではまだ、ではなかろうか。