『1Q84』まつり続(その2)、河出の『どう読むか』

 『1Q84』に関する本が何冊か出ており、これからも出る。私は河出書房新社村上春樹1Q84』をどう読むか』を買った。悪く言えば大急ぎで作った雑な本だが、それだけに気楽に読める文化人評判集である。
 概して低調な発言が並ぶのは仕方無かろう。一例だけ挙げる。09/03/08で扱ったエルサレム賞受賞講演での「卵と壁の比喩」に言及する人が多かった。この比喩は09/06/30でも触れたが、爆弾魔の擁護ととられかねない発言である。そこに私は共感した。ところが、この本での言及例はすべて、この比喩を「強きを挫き弱きを助く」というきれいごとの挨拶として理解している。爆弾魔の擁護として誤解する方がまだましだ。
 それでも、多くの書評パターンが網羅されているのが便利である。登場人物のモデル探しや、青豆が天吾の手になる人物であること、チェーホフ等作中で言及された書物の指摘、などなどが名のある人たちの記事として読める。そして、ひとつだけど、佐々木中の談話(「生への侮蔑、『死の物語』の反復」)には納得させられた。青豆の章に関しては本質を射抜いた感想だと思う。

 オウム真理教的な終末論は自分が生きている間に終末が来ることを望む。彼らの論理のなかに底流としてあるのは「どうせ死ぬのだから今死にたい。そして自分の死とこの世界全体の絶対的な死すなわち滅亡を一致させたい」という奇妙な欲望です。自分の死と世界の死が一致し、「すべて」の終末が「ひとつ」になるという、夢のような絶対的な享楽の瞬間。誰もが望む、この終末の瞬間、と。

 周知の通り、村上春樹はオウムに対抗する物語を立ち上げることを自らに課した。「しかし、この『1Q84』がそのような小説になっているか」、と佐々木は問う。答えは、「なっていない。逆です」、オウム的な「『死の物語』を反復し、そして強化するような物語になってしまっている」。これを青豆の章で佐々木は論証してゆく。要旨だけ紹介すると、彼女は「死と終末に憑かれている」、「そうした世界から自らを救済してくれる唯一のものは天吾の愛である」、「ところが、彼への愛を語るときに、彼女は常に必ず死を語る」、「天吾への愛は決定的に死と結びついている」。なるほどー、と感心して思わず『野戦と永遠』を買ってしまった。
 ほか、ユングに言及した清水良典も参考になった。私もリトルピープルはユング心理学の「影」で理解した。自分の中のわけのわからぬ暗い部分が「影」である。人は自分の姿として認めたくない面は「影」の中にしまって忘れておきたいと思う。しかし、「影」にはまだ見ぬ将来に成長する自分の姿も含まれる。ユングが警告するのは、文明社会では「影を全く失ってる人が大勢いるのです」ということだ(『分析心理学』)。清水が指摘してくれたのは、ユングの名が作中に出たことである、「これまで公式に作者がユングの影響を認めたことは、私の知る限り一度もなかった」。そこそこしか春樹を読んでない私にはありがたい指摘である。
 私は『1Q84』がきっかけで、初めて『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』を読んだ。後者はオウム真理教のごく一般的な出家信者へのインタヴューである。サリン事件について、加害者にも被害者にもなれない、いわばつまらない人たちの話が収録されていた。巻末に村上春樹河合隼雄との対談があり、彼らへのもどかしさを春樹はよく語っている。その複雑な感情をあえて一言でいえば、「指示待ち」の人たち。現代社会になじめない、でも自分では何もできない善人。しかし、彼らが大きな集団になるにつれ、無意識にオウムを殺人教団に変質させていった、私はそう思う。彼らの「指示待ち」が麻原彰晃をマインドコントールしたのであって逆ぢゃない、という面があったはずだ。私はこの信者たちがリトルピープルのように見えた。『1Q84』においても、さきがけの信者たちがリーダーをあんなふうに追い込んでいった、とは読めないだろうか。
 私の町の図書館で『1Q84』を借りようとすると、いまは782番目の予約になる。みんなが二週間づつ借りたとすると、783番目の人は三十年待たねばならない。