佐々木敦『ニッポンの思想』(その2)

 この本には、私の知らない話、忘れてた話、軽視してた話、がたくさんあって、それが役に立った。一例だけ挙げておこう。
 「週刊朝日」の緊急増刊「朝日ジャーナル」(04/30)に、浅田彰東浩紀とほか二名の座談会が載った。ふたりの違いがハッキリする応酬がある。「ゼロ年代の批評って部数は最大2、3万ですよ」という浩紀の発言に、浅田が「どうしてそんなに伝達や流通のことばかり考えるの?」と返す場面だ。浅田にしてみれば批評の送信は、瓶に詰めたメッセージを海に流す投瓶通信の方法で「いくほかない」。つまり、「届かないこともあるけれど、それは仕方がない」「見えない読者がたまたま拾って読んでくれればそれでいいんじゃないの?」。対して、浩紀の姿勢は彼のブログの09/03/25 に鮮明だ。

 ぼくはよく「批評は売れなければいけない」と言います。そのせいで誤解されてしまうのだけど、批評なんて当然売れるわけがない。そんなことはぼくも知っているし、そもそもぼくはぜんぜん本を売ろうとしていない著者です。しかし、同じ売れないにしても、1万部売れればぎりぎり批評という行為は再生産されるけど、2000部しか売れないと批評というジャンルそのものが消滅してしまう。そんな環境のなかで、ぼくが言いたいのは、もし批評というジャンルを愛しているのであれば、批評というジャンルを生き残らせるために最低限の売れる努力をしていこうよ、これからは文芸誌も大学も助けてくれないのだからさ、というだけのことです。

 さて、佐々木敦『ニッポンの思想』が思い出させてくれたのは、十年前の「批評空間」(第2期21号)の共同討議で、ふたりが投瓶通信の応酬をしていたことである。投瓶通信の本質として、送信後のメッセージの効果を送信者は思うがままには操作できない。浅田発言を引けば、「テクストがどこでどのように受け取られるか、それについて自分がどのように介入できるかというようなことを言い出したとたん、すごく次元の低い話になってしまう」。浩紀の反論は「それは結局、テクストの中で閉じる方向ではないのか」ということだ。
 投瓶通信に「おそらく東浩紀は根本的に納得がいっていません」と佐々木は書く。間違ってはいないが、事情はもっと複雑だ。投瓶通信は自身の論じた「郵便的」のモデルとして、浅田から突きつけられたのだから。共同討議でも浩紀は「原理的にはそうです」と投瓶通信を認めざるをえなかった。彼の「批評への愛」は『存在論的、郵便的』を超える原理を見つけるべきだったのだ。そしてゼロ年代にそれを果たしたと見るべきだろう。それが文学から離れてゆく仕事であったこと、そして、ゼロ年代の終りにあたって、また文芸誌に戻ってきたことは興味深い。「ファントム、クォンタム」は『存在論的、郵便的』の続編だ、と浩紀は言っていた。たしかに、風子の手記は投瓶通信だ。