ゴーストとファントム(その1、村上裕一)

 もう大昔のこと、ディープブルーがカスパロフに勝ったとき、私の思った素朴な疑問がある。複数のCPUをつなげたディープブルーを一台と数えていいのか、それとも何台かの機械の連合体とみなすべきなのか。私の出せる答えはせいぜい「問いに意味が無い」だった。士郎正宗攻殻機動隊』第七話に二台のロボットが軽く接続する場面がある。二台がつながったときの"会話"はこんな調子だ、「君…いやボクは…あれっ!? 君かつボク−!? ボク…!?」。つまり、通常の「個」の数え方が通用しないのである。その点で私は間違っていたわけではない。ただ発展性が無かった。ちなみに、ディープブルーの勝利は1997年だが、『攻殻機動隊』の連載が始まったのは1989年である。こんな先駆的な作品があることを私がやっと知ったのは一昨年のことだ。新婚の嫁がアニメ好きでなかったら、いまだにアニメを馬鹿にしたままだったろう。
 「東浩紀ゼロアカ道場」が終わった。六つの関門を抜けた最終通過者は村上裕一だった。こんなイベントがあることを私は第五関門の通過者が決まるまで知らなかった。この時点の課題だったプレゼンテーション動画を見た。内向的な若者たちが早口で「私の理解と主張によって世界は救われる」と語っている。馬鹿にするより寒気がしてしまった。しかし、村上の提出した最終関門の最終原稿を読んで印象が変わった。発展性を持っていたのだ。原稿は『攻殻機動隊』のゴーストを論じることから始まっている。それを『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画と結びつける発想が、私には無かった。次の引用からも、私が触れた『攻殻機動隊』の場面と人類補完計画の共通点は明らかだ。

 本作品は2000年に起きたセカンドインパクトという大災害によって、地球環境が激変し、人にとって生きていくことが非常につらい世界になってしまっていた。このような生存の問題を解決するための世界的なプロジェクトととして「人類補完計画」が推し進められていた。そしてそれは実行される。そうして展開されたのは、人類がみなLCLと呼ばれる液体に溶けてしまい、そのLCLの海の中で一つになった世界だった。それは、どこまでが自分でどこからが他人かが分からず、どこまでも自分でどこにも自分が見当たらない世界だった。

 「ゴースト」は『攻殻機動隊』の用語で、要するに魂のようなものである。村上裕一はこれを「ゴースト1」と分類した。『攻殻機動隊』では、人間の身体を機械で置き換えることを「義体化」と呼ぶ。さて、全身をほぼ義体化した場合でも、それは本当に人間なのか。もはやロボットではないか。この問題を提起した作品として、私の知る古い例ではたとえば筒井康隆「疑似人間」(『にぎやかな未来』1968所収)がある。たぶん作者の解答は懐疑的なものだろう。ゴーストの概念はこれを肯定的に変えるものだ。『攻殻機動隊』では、ほぼ全身を義体化した人間でも、ゴーストを有しているとみなされる。
 これは筒井よりはるかに複雑な問題を提起する。人間に近いロボットは、人間とみなしていいのではないか。いや、ロボット的な意味での身体さえ持たなくていい。『攻殻機動隊』では、ただのプログラム「人形使い」が自分は生命体であると主張するのである。村上はこれを「ゴースト2」に分類した。全身を義体化した主人公草薙素子の場合でも脳と脊髄は人間のままだ。それがゴースト1を彼女に保証している。逆に言うと、彼女には脳と脊髄しか無い。そんな身体について村上は、「神経ネットワーク自体がもはや身体そのものである」と言う。つまり、これを電子ネットワークと接続してしまえば、「身体が、ネットワーク全体を示しているということに他ならない」。すると、ネットワークに宿るゴーストが考えられる。それがゴースト2である。ゴーストどうしが接続すれば、人類補完計画との類推が可能な状態が生じるわけだ。
 私はそこまで『攻殻機動隊』を読み込めなかった。素子は脳まで義体化したと勘違いしていたほどである。村上と同世代に属する嫁に教わって、確認し納得した次第だ。村上は「ゴースト3」まで考えた。現在発表された原稿は未完成で、これはまだ十分に語られていない。しかし、いまのところ話題は新しいけど内容がどんどん古くなってゆく気がする。この予感が当たっていて、若者の限界を示しているなら、おじさんはちょっといい気分だ。