ゴーストとファントム(その2、東浩紀)

 機械は心を持つのか、というのはそんなに新しい問題でも難しい問題でもない。多くの知人に「機械と人間の違いは何か」と訊いたことがある。「機械には心が無い」というのが私の予想した多数意見であり、事実そうだった。「すると」と、私は用意した第二問を発する、「アトムやドラエモンには心が無いんだね」。全員がそこで戸惑うか、さっきの回答を撤回した。心を持つ機械が存在するのは否定できそうにない。
 この問題に関する私の好きな回答は大森荘蔵「ロボットの申し分」である(『流れとよどみ』1981所収)。ロボットが人類に語りかける、という趣向のエッセイで、結論はこうだ、「他人が心あるものであるのはあなたがそれを『信じる』からではなく、あなたが彼を心あるものとして見立て応対するからなのです」。他人を心あるものとして扱うこと、それによって他人に心を「吹き込む」のだ。結論よりもその帰結の方が面白いので引用しておく。

 あなたがその「吹き込み」を止めることも原理的には不可能ではありません。あなたがそれを止めれば他人はすべて心なきでくのぼうになりましょう。そしてあなたは今度はそのでくのぼうによって離人症としてあつかわれましょう。あなたは人気のない荒漠とした世界に独り生きることになります。それも孤島の上ではなくでくのぼうの群れのまっただ中でです。そのときは既にあなた自身からあらゆる人間的なものが脱落しているでしょう。つまり、人間ではなくなっているでしょう。

 脳の有無や心の持ち主ばかりを検討する種の哲学よりも決定的に新鮮である。自分の人間性を自明としたうえで、他者の心の存在を他者への感情移入で説明する理論とも異なる。このエッセイは「山川草木すべて心あるものだ」というアニミズムの可能性まで示唆して終わる。士郎正宗も『攻殻機動隊』の欄外に、「僕はあらゆる森羅万象にゴーストはあると考える」と書きこんでいた。大森哲学でゴーストを説明できる面がありそうだ。たとえば、テレビ版のタチコマのふるまいに、無いはずのゴーストが感じられる点など。
 ただ、電脳化を果たした後のゴーストはまた別の問題を生む。『攻殻機動隊』第6話に現れる例だが、ゴーストはコンピュータの情報としてダビング可能なのである。士郎の欄外解説では「ダビング時にオリジナルが失せ、別物が新生する」とあった。つまり、作品で描かれるのはゴーストの大量複写だが、複写先が一か所ならこれは要するに転送だろう。そこで思った。東浩紀ファントム、クォンタム」で登場人物たちが転送されるとき、ゴーストが転送されているのだ、と考えるべきではなかろうか。

 ぼくたちは、現実と反現実を等価だとみなす一種の独我論の時代に生きています。人間は世界を量子脳の計算を通してしか認識できません。そして量子脳の計算はつねに並行世界からの干渉に悩まされている。だから、並行世界が実在するのか、量子計算が生みだした虚構なのかを問うことには意味がない。人間はいずれにせよ、並行世界からの干渉なしに現実を現実として同定できないのです。(第二回)

 これが「ファントム、クォンタム」の世界だ。電脳は無い小説だが、ゴーストを情報として扱える点は同じだから転送は可能だろう。ただ、並行世界間の貫世界通信であり、『攻殻機動隊』よりも奇妙な事態が生じる。作品では双子世界のパラドックスとして説明されるもので、「世界Aにとって世界Bはシミュレーションにすぎない。だから世界Aの住人は世界Bにいくらでも干渉することができる。同じ理屈で、世界Bの住人の世界Bの住人も世界Aに干渉することができる」。世界Aは世界Bのコンピュータで計算されたシミュレーションであり、同様、世界Bは世界Aのシミュレーションなのである。
 これについてはまたいづれ考えたい。いま気にしているのは、「ファントム、クォンタム」は「露骨な心身二元論」で書かれている、と私は09/07/31 で言ってしまったことだ。しかし、この作品ではいま述べたような転送が行われていると考えれば、心身二元論は免れている。実際、そう読むのが当然だろう。こんな初歩的なところにつまづいていたのが、私の頭の固さだ。もっとも、私をかたくなにさせる部分はまだあって、「人間は世界を量子脳の計算を通してしか認識できません」なんてところが気になるけど、きっとこれもそのうちわかるだろう。