葉月の一番、「群像」8月号、川上未映子「ヘヴン」

 川上未映子については何度か書いた。言葉づかいは変わってるが、だいたい日常語や標準語に翻訳できる。それでも誰とも異なる理解しがたい私的感覚を持つことへのこだわりが、あの文体を書かせている。「新潮」七月号の「すばらしい骨格の持ち主は」で彼女はそれをやめた。そのとたん、小説は主人公が理解しがたい他人の感覚と向き合うことになる。その他人に「さっきから標準語になってますよ」と言われるのが象徴的だ。この他人に対し、主人公は強い嫌悪を感じるのだが、充分にそれを言葉にできない。おまけに、そいつに「僕たち、似てるんですよ」とまで言われてしまう、しかも、「ご存じだと思いますけど」。主人公は言い返せぬままで終わる。あわせて「ヘヴン」を読む者はこの点を忘れるべきではない。
 「ヘヴン」の主人公は中学校でいぢめられている男の子である。コジマという女の子もいぢめられており、この二人の交流から小説は始まる。「コジマ」という名はワーグナーの奥さんと同じだ。詳説は省くが、この小説はニーチェを連想させる部分があるから記しておく。ついでに言うと、二人が観に行く絵はシャガールで、コジマが「ヘヴン」と名付けた一枚は「誕生日」だろう。
 同じ境遇だが、主人公とコジマでは考えが違う。コジマの思想は旧約のユダヤ人や「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という新約のキリスト教徒の同型だ。境遇に意味を与えて迫害に耐えるのである。対して、主人公は何も考えない。いぢめられる時間を過ぎるがままにさせておくだけだ。意味づけに関し対象的な二人のどちらがそれまでの作品『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』や「戦争花嫁」を継承しているか、考えてみるのは面白いだろう。私は以前の主人公が分裂して二人になったように思える。
 重要な人物はもう一人いる。主人公をいぢめる側の百瀬だ。彼と主人公の対話が作品の世界を最も開示する場面になっている。

「僕は君たちから暴力を受けてる」と僕は言った。
「それをやめてほしいって話なの? これは?」と百瀬が言った。
「そうかもしれない」
「かもしれないって、なんだよ」と百瀬は笑った。

 やめてほしい、と主人公が頼めばそこに百瀬との関係が生じる。実は主人公はそれを望めない人間なのだ。彼の望みは、「できることなら放っておいて、ほしいんだ」ということに尽きる。この望みは百瀬と関係することの無い彼の勝手だ。排泄や食欲とも変わらない個人的な欲求と並べてもいいだろう。そして、それと同じ型の勝手な欲求でもって百瀬は主人公をいぢめているのである。二人は互いに「君の言ってることの意味がわからない」と言い合う。それはどちらの言葉も関係を望んでないからだ。二人はよく似ていると思う。立場の違いは大きいが、その違いは似ているからこそ生まれたものだ。

「仮に仕返しもなにもしないからいいからいまやってみなって言われて、僕の頭にバレーボールをかぶせて君は蹴ることができるか?」
「僕は」と言ってのどがつまり、僕は大きく唾を飲みこんでしばらくしてから言った。
「そんなことは、したくない」
「そうだろ。問題はそこだよ」と百瀬はうれしそうに笑った。

 したくない、と言う主人公の言葉は、客観的な説明ではなく、彼の勝手な欲求を述べただけのものだ。勝手な欲求で主人公をいぢめる百瀬と変わりが無い。私も問題はそこだと思う。
 主人公とコジマの対比、主人公と百瀬の類似をふまえて結末を読むと、彼の姿勢は最後まで変わらないように見える。目に映る風景を彼は「美しい」と思う、「しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった」。意味を持たない、誰とも関係を持たない、勝手な美しさ、と言っていいだろう。こうした私的感覚へのこだわりが川上未映子の本質にありそうだ。