中原中也「サーカス」

 私が最初に詩集を買ったのはたぶん高校一年の時で、新潮文庫西脇順三郎アポリネール堀口大学訳)、角川文庫の中原中也だった。西脇がいちばん私の性に合っていると思うが、若気のいたりでハマったのは中也だった。おかげで今でも読むことがある。そして、若い頃とは読み方が違ってくる。
  幾時代かがありまして
    茶色い戦争ありました
 高校生の頭にはなぜか日露戦争が浮かんだ。これはどうも私だけの感覚ではないようで、「茶色い戦争」を明治大正の戦争に結びつける人をよく見かける。加藤周一の解釈では「茶色」は写真の変色やセピア色だ。「家庭に戦争の古い写真が何枚かあり、少年の中也がそれを見ていたとしても不思議ではない」と言っている(『新編中原中也全集』第一巻月報)。これも日露戦争説だ。中也の父は日露戦争に行った軍医なのである。
 もちろん、本気で検証するつもりは無い。戦争を「そのように特定することはほとんど意味がない」という吉田ヒロオが正しい。「この詩はサーカスの一場面を描写しながらも、実は詩人の意識の動きを表現した詩だからである」(『観賞日本現代文学中原中也』)。ただ、吉田にしても、この戦争は中也の生きた時代から考えての「感覚的にしか表現できない遠い過去」であることを前提にしているようだ(『評伝中原中也』)。
  サーカス小屋は高い梁
    そこに一つのブランコだ
  見えるともないブランコだ
  頭倒さに手を垂れて
    汚れ木綿の屋蓋のもと
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 最近読み返すと印象が違う。「頭倒さに手を垂れて」という放恣な姿勢に生気が無い。「見えるともない」はブランコが本当は存在してないことを言うのだろう。つまり、幽霊サーカスではないのか。続く「観客様はみな鰯」を「鰯のような観客」と解釈する説を読んだことがあるが、私は「観客席は無人で鰯しか見る者が無い」と感じる。水没した廃墟の心象である。
 すると戦争は何?と言うと、最終戦争だ。中也は、過去から現在ではなく、現在から未来にかけて、人類が滅んだ戦争や、誰も居なくなった野に吹く疾風の幾時代を歌ったのではないか。文明のむなしさに倦怠感をこめた「ノスタルヂア」として幽霊サーカスは興業されているわけである。私と似た説の論文の有無は知らない。無い気がするのだが。