温故
十年前の一月号には「群像」と「文学界」が柄谷行人の対談や鼎談を載せた。どちらも良い。NAM を始めた頃で、柄谷の発言は意気軒昂としている。それとはあまり関係無い部分を引用しよう。もちろん、NAM を始めたという文脈で語っていることではある。「群像…
十年前は三島由紀夫が死んで三十年だった。「新潮」が臨時増刊を出した。アンケートがある。1、「三島由紀夫」が好きですか、嫌いですか。それは何故ですか。2、自決後の30年間はどういう時間だったと思いますか。3、三島作品のベストワンは。(ごく簡単…
昨年から文芸誌を読み始めて気がついたのは、私の複数性と世界の複数性を扱った作品が多いことだった。もちろんこれは文学史上初という事態ではない。十年前の「ユリイカ」四月号が「多重人格と文学」という特集を組んでいるのを見つけた。大塚英志と香山リ…
一九九四年の宮台真司『制服少女たちの選択』は二部に分かれている。ブルセラ論争に関するものは第一部だ。第二部は「中央公論」一九九〇年十月と十一月号の「新人類とオタクの世紀末を解く」を書き直したものである。『制服少女』の第六章が十月号で、第七…
五五〇枚を一挙掲載である。あんまりたくさんなので、単行本との違いを比較する気になれなかった。当時の新聞時評を確認すると、川村湊も菅野昭正も、第二部もふくめ「葬送」に言及していない。平野啓一郎のブログには、「ピアニストの方と会うと、『葬送』…
以下、中上健次の物語論の引用である。彼は物語を「法・制度」として考える。実は、最も重要なその点はこの長い引用でも紹介しきれない。本書よりは、講演「物語の定型」や蓮實重彦との対談「制度としての物語」などを参照すべきだろう。また、蓮實の『枯木…
私は中上健次を真面目に読んだことが無い。ざっと目を通してるだけなので、彼が物語を守ろうとしているのか壊そうとしているのか、よくわからなかった。久しぶりにこの本を読み返し、次の言葉に出会えば答は明瞭である。中上 いまのように人がうたいまわって…
たくさんの本を実家に置いている。それを読むのが帰省の楽しみである。この夏は柄谷行人と中上健次の『小林秀雄をこえて』(1979)を読んだ。対談と評論みっつを載せた本だ。村上春樹が『1Q84』を解説してるインタヴューをいくつか読んでるうちに、物語が気…
こんなものあいつに読まれたら恥ずかしい、そんなあいつの役を担当する者が居なくなってしまった、おかげでみんなくだらないものを平気で書けるようになった、という意味のことをどこかで蓮實重彦が言っていた。いま手元の本をざっと探して見つからなかった…
あれ?っと、今年になってから思い出した。昨年は江藤淳没後十年だったのでは。主要文芸誌にその種の記事を見た記憶が無い。いまさら悲しくなって、亡くなった当時の「新潮」「群像」「文学界」といった追悼特集を読んだ。晩年だけでなく若い頃のエピソード…
『服部さんの幸福な日』(2000)と『濁った激流にかかる橋』(2000)が好きだから、私は伊井直行の愛読者だ、と言ってもいいかもしれない。特に、筋書きだけ書いたらサイコで緊迫感のあるはずのストーリーを、のほほんと仕上げてしまった前者が気に入っている。…
ウェーベルンは最も好きな作曲家のひとりである。むかしは良い演奏のCDが少なかった。悪い演奏さえ少なかった。ブーレーズが監修して一九六七年から七一年にかけて録音された全集がやっとCD化されたのは一九八七年である。それもあまり満足できるもので…
映像文化の隆盛が活字文化を衰退させる。そんな見方に対して、ある評論家の時評が言っていた、「私は映画やテレビにくらべて、小説の運命を云々する外在的な議論を好まぬのである。映画やテレビが発達すればするほど、そういうものでは代置しがたい小説独特…
瀬戸内寂聴と山田詠美の対談があった。今年の「群像」一月号の対談も良かった。馬が合うのだろう。女流文学会の話がまた出ている。「群像」よりずっと愉快だ。平林たい子、佐多稲子などなど四十人で箱根に遊んだときのこと、まだひよっこの瀬戸内は「ちんぴ…
たしかに浅田彰の発言には、そんなことは黙ってればいいのに、と思うのもある。そこは省いて、必要な部分を。中森 東は浅田さんが編集委員を務める『批評空間』が売り出した批評家なんだから、もうちょっと教育したら。それとも、個人的に迫ったけど、ふられ…
何度か触れてきた投瓶論争をそろそろまとめておきたい。自分の批評活動をどうやって読者に届けるか、という場合のモデルのひとつが投瓶通信だ。 1、浅田彰は投瓶方式を支持する。この方法では一人の読者にも批評が届かないかもしれない。けれど、「届かない…
何年も前に中島敦『山月記』は研究論文をいろいろ読んだ。クレス出版『中島敦『山月記』作品論集』(2001)を使った。木村一信の作品論がそれまでの研究史の成果の積み重ねの上に立つ到達点で、これを超えるものはなかなか出ないだろう、と思った。主人公李…
まづ近代の特徴から入る。めんどくさいから、彼の旧字旧仮名は踏襲しない。「その性格はある集団が文明に達したことがさらに精神を刺激してその一層の働きを促した結果がその働きという形で認められるにいたり、それがどういう形のものでも受け入れられなが…
東京大学総長蓮實重彦のインタヴューがあった。「国立大学独立行政法人化への反論」と題されている。「独立行政法人化の問題は、大学改革の論議とはまったく別に、行政改革の流れの中で突如、国立大学も行政の一環だからというくくり方でその対象に組み入れ…
明治初期の国学系雑誌「大八州学会雑誌」というのを読んだことがある。大森貝塚の発見などによって歴史の考え方が大きく変わる時代だ。しかし、大八州学会はそんなこと認めない。ざっと要約すると、「古事記や日本書紀のありがたい書物と、土の中からいまさ…
偶然で、年末から武田泰淳に関するものを読む機会が重なっている。すでに二回書いたとおりだ。ほか、古本屋で見つけた『近代文学の軌跡』(1968)がある。現代文学者に関する「近代文学」の座談会を集めた二巻本だ。その第六回が武田泰淳である。本多秋五や…
李恢成「地上生活者」の連載第一回が載っていた。三浦雅士「青春の終焉」も連載第一回だ。さて、十年後の「群像」一月号と比べよう。「地上生活者」はまだ連載中である。書き続けた人よりも、読み続けた人を誉めたたえたい。いればの話だが。そして、三浦は…
吉本隆明との対談で古井由吉が江藤淳について、こんなことを言っている。「江藤さんの漱石追究も、最初にこれが小説といえるんだろうかっていう疑念を踏まえていると思います。そこがすぐれたところだと思います。で、なおかつ小説だと解き明かすところが」…
「新潮」は明治文学を論ずる大型評論をふたつ連載している。渡部直己「日本小説技術史」と松浦寿輝「明治の表象空間」である。どっちも私が文芸誌を読み始める前に始まっており、なにより力作だから文章がややこしい。ちらっと眺めるだけで敬遠している。「…
芥川龍之介「蜘蛛の糸」(1918)は子どもの頃から不可解な話だった。それは専門家もよく言ってることである。例によって「蜘蛛の糸」にも種本があって、それと比較するとわかりやすい。 ケラスというドイツ人の『カルマ』(1894)が種本である。それをトルスト…
私が最初に詩集を買ったのはたぶん高校一年の時で、新潮文庫の西脇順三郎、アポリネール(堀口大学訳)、角川文庫の中原中也だった。西脇がいちばん私の性に合っていると思うが、若気のいたりでハマったのは中也だった。おかげで今でも読むことがある。そし…
昭和二十九年五月のことである。結核患者の入退院に関する入退所基準を厳しくする、という通達が厚生省より示された。これに対する反対運動を繰り広げたのが日本患者同盟である。『日本患者同盟四〇年の軌跡』(1991)によると、五月に大阪で二〇〇名が、六…
少なくとも刊行一年以内の新作だけを扱うつもりで始めたブログだが、半年続けてみて、「文学の終り」についての考えが変わってきた。目前の壇ノ浦を眺めるだけでなく、月に一回くらいは古い作品を書きたくなった。まづは黒田三郎「引き裂かれたもの」なんて…