黒田三郎「引き裂かれたもの」(その1)

 少なくとも刊行一年以内の新作だけを扱うつもりで始めたブログだが、半年続けてみて、「文学の終り」についての考えが変わってきた。目前の壇ノ浦を眺めるだけでなく、月に一回くらいは古い作品を書きたくなった。まづは黒田三郎「引き裂かれたもの」なんてどうだろう。『渇いた心』(1957)の一篇である。
  「二千の結核患者、炎熱の都議会に坐り込み
  一人死亡」と
  新聞は告げる
  一人死亡!
  一人死亡とは
  (略)
  決して失われてはならないものが
  そこでみすみす失われてしまったことを
  僕は決して許すことができない
 普通は結核患者を見殺しにした都議会を糾弾するものだが、この詩はそれを「一人死亡」と報道した新聞を責めている。理由は代表作「死のなかに」の冒頭「死のなかにいると/僕等は数でしかなかった」を想起すればわかるだろう。数で表現されてしまった個人は、人数さえ合えば誰が死んでもたとえば「一人」として表現され、その単独性が失われてしまう。単独性こそ「決して失われてはならないもの」だ。
  僕は見たのである
  ひとりの少女を
  一世一代の勝負をするために
  僕はそこで何を賭ければよかったのか
  (略)
  僕は
  僕の破滅を賭けた
  僕の破滅を
 おなじ一人でも、この「賭け」の「ひとり」は単独性を表す。だから、「僕」は「僕の破滅」すなわち存在を賭けるしかない。それは、この「少女」の魅力を属性の束として語りきれず、同様、「僕」も自分をアピールする属性を一つも見つけられない点に明瞭だ。彼女を愛した理由を説明できないのは、彼女の特徴ではなく存在を愛したからだ。それは「夕方の三十分」の親子が仲直りした理由を説明できないのと同じだ。こうした「一人」の問題に敏感な詩人だったと思う。
 ところで、この「二千の結核患者、炎熱の都議会に坐り込み/一人死亡」って何だろう。詩は事実に基づいているように読める。先日、図書館に寄ったついでに新聞の縮刷版を探してみた。