文月の一番、新潮8月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」最終回(その2)

 たくさんの読み違えを重ねつつ「ファントム、クォンタム」について書いてきた私だが、連載第一回から『存在論的、郵便的』との関連を指摘できたのは数少ない正解のひとつだ。「文学界」で連載中の「なんとなく、考える」第十三回(八月号)で浩紀はこう書いている。

 ぼくはじつはこの一年強、小説「ファントム、クォンタム」を書きながら、これは『存在論的、郵便的』の続編ではないかと感じ続けてきました。
 実際に「ファントム」は、存在と郵便をめぐる物語なので(略)、『存在論的』と主題が一致していると言えば言えます。おそらく、単行本化されれば、少なからずそのような方向の読解も出てくることでしょう。

 もっとも、私は指摘しておきながらラカンの影響を軽視したのだから、正解とはいえレベルは低い。「ファントム、クォンタム」を読み終わってみると、象徴界現実界想像界の絡み合った小説のようにも思えるが、私はラカンがわからないのである。その意味で本作を最も良く解説できるのは斎藤環ではないか。『生き延びるためのラカン』で彼がコンピュータ・グラフィックの比喩を使って、象徴界をプログラム、現実界を機械、想像界を映像に見立てたのを、「ファントム、クォンタム」に適応したらどうだろう、と思うのである。
 「はてな」で検索する限り、この作品を楽しみに読み続けたブロガーはなんと私だけだ。思うに、「単行本化されれば、少なからず」云々という浩紀の見通しは甘い。彼がこう言えるのは、「ぼくの小説は、小説としてはごく標準的、というか文芸誌の掲載作の多くよりもエンターテインメントに近い文体で書かれていて、基本的には読みやすい作品のはずです」という自負があるからだ。しかし、実際は哲学やら理系やらの専門的な用語が頻出する、とても読みにくい小説である。何より、これまで指摘してきたように、このまま出版してしまっては、不可解な箇所が多すぎる。さらに、浩紀自身わかっているように、『存在論的、郵便的』をゆとりの読者は読みたがらない。
 それだけに、「ファントム、クォンタム」と『存在論的、郵便的』の関連の重要性は指摘しておきたい。『存在論的、郵便的』第二章から引く。

 かつてアリストテレスが名指された。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り配達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。必然的にそこではさまざまな齟齬が生じる。(略)「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明(デッド)になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。そしてそれら幽霊はネットワーク(伝達経路)の不完全性によって、様相性と複数性の徴のもとで現れる。

 量子論多世界解釈に発想を借りた作品について、他世界への転送を読者の想像力が許してくれるのはせいぜい意識の部分だけだろう。肉体と分離された意識である。そのため露骨な心身二元論を作品は引き受けることになった(追記。これもまた読み違えたようだ、訂正は09/08/29 に)。それへの不満をあまり感じないのは、複数の往人が存在する思いを、たとえ共感できなくても、理解はできたからではないか。往人には別の人生があっても良かったはずだ、という思いである。『1Q84』のような世界の複数性ではなく、「ファントム、クォンタム」では生き方の複数性がひとまづ問題なのである。引用が示すのはそのことだ。
 難しい。とりあえずここまで。単行本化されたときにきっとまた考え直すだろう。