新潮8月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」最終回(その1)

 ついに最終回である。私の期待も予想もほとんど裏切られて、その点では不満も敗北感も大きい。でも、それはどうでもいいことだ。私は『1Q84』と比べながら読んで、並行世界や可能世界について考えた。東浩紀よりも村上春樹の方が話上手だが、この問題については「ファントム、クォンタム」の方がずっと深く切りこんだと思う。そんな作品の方がこれからの文学にとって大きな意味を持つのではないか。ちなみに、「これから」とはゼロ年代以後とかではなく、過去二十五年、未来二十五年くらいの話である。
 友梨花の告白がある。それは作品の謎解きでもあり、彼女がデウスエクスマキナの役を買って出たように見えた。友梨花の感情には他の世界の友梨花の感情が重なっている。謎解きよりもそこが興味深い。つまり、Bにおける友梨花は楪渚に嫉妬を抱いており、そのため、Aにおいても友梨花は楪渚に嫉妬するのである。AとBだけではない。友梨花の脳では百を超える諸世界の友梨花がざわめいている。その意味では、この友梨花はもはやAにおける友梨花とは言えない存在者なのだ。彼女は並行世界の世界観を身体のレベルで負っている。
 理樹は並行世界を語りながらも、その世界観は可能世界に親しい。だから友梨花の告白に理解も興味も無い。そこで、理樹は自分が最後の解説者に成り替わろうとする。彼によれば最終回の舞台は本来のAではない。理樹が往人Aと往人Bを交換させたことによって生じた世界なのである。ただ、この後に風子や往人と会話する理樹の言葉が私にはよくわからない。たとえば、彼が風子に向って「ぼくたちの世界」というとき、それは何を意味しているのか。また、往人に問われて、最終回の舞台が往人の世界の「直接の未来」であることに、理樹が「そうです」と答えたのは正しいのか。
 この程度の些細な疑問はすっ飛ばされる。理樹の謎解きの核心はもっと先、最終回の舞台の本当の創造主を明かすことだ。そして、それが明かされたとき、往人が初めて世界に対して行動を起こす。彼は最終回の舞台で生きようとし、本来の世界に帰ろうとする理樹を妨害するのだ。すなわち、創造主を壊す。しかし、その行為がもたらすのは、夢見る者を夢の中で殺せば他の夢の登場人物たちがどうなるか、というのと同じことだ。小説では往人だけが世界を去るように書いてあるが、それだけでは済むまい。
 最後の一章をどう読むかは議論の分かれるところだろう。私は、いわば、創造主が目覚めた後の世界なのだ、と読みたい。「本当の幸せ」の面白さはきっとそこにある。
 ずっと気になっていたことを記す。最終回でわかるかな、と思っていたがそうでもなかった。第一部は往人の語りと風子の語りが交互に入れ替わる。後者は第七回でたぶんこっそり投函された風子の手記である。さて、たとえば前者には、「のちにぼくは、この電話の会話に真剣に耳を傾けなかったことを後悔する」(第二回)、後者には、「わたしには、現実と虚構が等価である、ということの現実的な意味を理解していませんでした」(第一回)という発言が現れる。これらはどの時点での感慨なのだろう。
 前者の例は、自分は物語の結末を知っていると思う者の言葉である。後者の例は最終回を知らない者の言葉である。前者に関しては、「物語の結末まで知って語れる往人とは誰だ」という疑問がわく。後者に関しては、いつどんな「理解」を風子は得たのか、わかりにくい。特に、手記の中で第五回に理樹が言う「もうひとつの可能性」が問題だ。私には、この時点で理樹が創造主の存在に気づいているように読める。妙ではないか。そこまで理樹が鋭い男だと私が思いたくないだけかもしれないが。