「文芸」夏号、中村文則「掏摸(スリ)」

 変った職業を題材にする時は近代文学の手法が活きるはずだ。リアリズムにせよ、象徴主義にせよ。「文芸」夏号の中村文則「掏摸(スリ)」はその好例である。
 参考資料にブレッソン『スリ』のDVDが挙がっていた。小説での財布を抜き取るリアルな指使いは、たしかにこの映画を想起させた。DVDの特典映像も作家に強い印象を与えたのではなかろうか。『スリ』には本職のスリだった男が出演しており、彼が芸人になった時の妙技が収録されているのである。観客の財布や腕時計はもちろん、たしかネクタイまで引き抜いてしまったはずだ。ただ、見ていてだんだん沈鬱になる。被害者は男の狙いがわかっているのに逃れられない。名人は笑い続けている。でもきっと、客の役に立たない警戒に絶望し飽き飽きしている。悪魔の冷笑って、きっとこんなうつろで果てしの無いものなんだろう。
 「掏摸」の主人公はこの絶望が、相手ではなく自分自身に食い込んでゆくタイプのようだ。そのぶん赤の他人に期待してしまうのだろう、彼はどんなに名人であっても人情を捨てきれぬ人間である。だから悪魔の役を演じるのは主人公のスリではなく、謎の男だ。主人公が悪魔にかなうわけが無い。悪魔のような謎の男は逃れようの無い世界の象徴でもあろう。それでも主人公はなんとか血路を切り拓こうとする。死ぬか生きるかのギリギリで、そこに主人公のスリとしての尊厳もかかっている。
 この小説が発表される前に、すでに文学は面白いのか(仮題)が中村の作品を「結局は「世界対自分」でしかない犯罪者小説」と評していた。本作にもそのままあてはる評言で見事に当たっている。でも「結局は」がひっかかる。結局は私たちも世界対自分だと思うのである。「掏摸」の主人公の対峙する世界はセカイ系とは異なる近代文学的な自我を通した世界だ。この回路の不思議は意外にまだ使えるもんだなあとも思った。