庵野秀明「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」

 私は四十を半ばも過ぎて昨年に初めて「エヴァンゲリオン」を見た者である。それがまた初めて東浩紀を読むきっかけにもなった。ふたまわり近く年下の嫁の影響だ。庵野秀明という名を何十年も記憶にとどめていたこともある。私にとって彼の名は「風の谷のナウシカ」の巨神兵の担当者であった。その頃の若いスタッフのインタヴューで、たしか彼だけが「いつか監督として自分の作品を作りたい」と語っていたのを忘れられなかったのである。だから巨神兵を想起させる使徒が現れるとうれしい。
 もっとも私には「エヴァンゲリオン」はあまり新鮮ではなく、テレビアニメのどんづまりに思えた。気合いが深刻で重く、そこが古臭く、空回りしており、それを照れ隠しするようなオタクっぽい感性の笑いが、「おまえらはそこまでだ」と私に思わせた。ただ、そこまで限界に挑戦されると、自然に敬意が湧くもので、最後までDVDを見届けた。嫁にいろいろ見せてもらった中で、いかにもアニメらしい「ガンダム」につき合いきれなかったのと対照的だ。
 そんなわけで、まだ心音さえ聞いてない胎の子の仮名は「あすか」だし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は私から嫁を誘って初日に駆け付けた。すっきりまとまった作品だった。それゆえ第一印象は、浩紀のブログの結論と同じである。彼がかつて感じた「エヴァ」の「イタさ」は、私の感じた「どんづまり」と似たものだろう、そしてそれが、「物語のなかに回収されてしまうと、作品からなにか欲望の核みたいなものが抜け落ちてしまう」。要するに「エヴァ」は「ガンダム」並みのアニメらしさに落ち着いてしまったわけだ。
 とはいえ、われわれは初期の「エヴァ」を念頭に置きながら「破」を見るわけで、逆に言うと、「序」と「破」だけを見る人は「ガンダム」しか見てないのと同じことだと思うのだけれど、新旧のシンジやレイやアスカとのだぶりやずれが楽しかった。たとえば、電脳丸腰庵のシンジ評を引こう、「彼は自分で思っているようなダメ人間では全然なくて、単に『周りから必要とされることに慣れていない』だけなのです」。私は思わず快笑してしまった。実に的確だと思う。しかし、これは九〇年代のシンジとゼロ年代のシンジを、いわば並行世界の同一人物として見て初めて説得力を得る一句ではないか。実は引用元の文章も含め、多くのファンは、ふたつのシンジを差異において注目して、「『破』のシンジは成長した」と語る。それが惜しい。差異の時代の言説では「破」は語りきれまい。
 それにしても、「破」に関する「はてなブログ」の感想を読み渡りながら感心した。みんなよく気が付くものである。冒険野郎マクガイヤーの指摘には一本取られた。「太陽を盗んだ男」に使われた音楽が現れる、というのである。