「新潮」九月号、柄谷行人「哲学の起源(3)」

第四章 宗教批判としての自然哲学 タレスは万物の元を水に求めた。アナクシマンドロスは地水火風の四要素を挙げた。しかし、イオニアの自然哲学においては、何が始原物質であるかという意見の相違よりも、共通点に注目すべきだ。物質と運動が不可分であり、物質が自ら運動する、と彼らは考えた。つまり、こう考えれば、運動や生成において、物質を動かす神のような主体による制作を想定する必要が無い。
 アリストテレスと比べてみよう。彼は運動や生成の原因が物質に内在していると考えた。特に、タレスほかミレトス派を批判して、彼らは形相因や目的因を見出せなかった、と述べた。次の引用の「彼」はアリストテレスである。

 しかし、目的因や形相因は、事物が生成したのちに見出されるものだ。そのような事後的観点から、彼は運動が目的(終り)をもつと考えたのである。彼はそれを目的因と呼んだが、それは終りを始原に投射することである。ミレトス派における物質の自己運動は、目的(終り)をもたない。そこに目的をもちこむことは、そのような自己運動を否定することに等しい。そこでは生成(運動)は制作と同じことになる。(略)アリストテレス形而上学がのちにイスラム教やキリスト教において「神学」の基盤となったのは、不思議ではない。

 哲学の主流になったのはプラトンアリストテレスアテネ哲学だった。それを批判した者において、イオニア自然哲学の思想が回復されることがある。ダーウィンマルクスだ。マルクスの学位論文「デモクリトスエピクロスの差異」の真の狙いはアリストテレス批判である。
感想 「制作」について、『隠喩としての建築』を思い出した。また、「終り」を語る思想を「事後的観点」として批判する論法は昔と変わらない。柄谷行人の言うように近代文学は終っていていいけれど、この連載を読んでいると、文学において「回復」は可能であるように私は思えてくる。