「群像」九月号、川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」(1)

 椅子や石の考えている夢を実現してやるんだ、と埴谷雄高は絶叫していた。『独白 「死霊」の世界』のどこかでそんな場面があった。椅子や石の夢はさぞかし楽しくて、実現のし甲斐があろう。埴谷雄高には、「言いたいことも言えずに死んでいった者たちの代弁者になる」という戦後派特有の志がある。椅子だろうと石だろうと、言いたいことを心にためているのが当然なのだ。これは前提されている。
 この前提を認めてしまうと、ヴィトゲンシュタインに始まる私的言語の批判にどうしても納得できない違和感を覚えてしまうのではないか。椅子のように石のように黙ってる人の心の中の私的言語を、無意味だとはなかなか言いきれない。では、椅子や石は何も考えてないとしたら。黙ってる人はただ黙ってるだけだとしたら。
 つまらない人間というのはいる。何が楽しくて生きているのかわからないような人だ。職場で何人か見かけてきた。指示された仕事をぼそぼそとこなすだけで、特に趣味も無く、そんな人と話しても、話題が見つからないほか、話がかみあわず、会話感が得られない。こういう人間を主人公にしたら小説はどうなるんだろう、とは昔からよく思っていたことである。川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」はそれに答えてくれたような作品だった。埴谷雄高には書けない種の小説だと思う。
 新宿を歩いた主人公は、どこに行きたいところがあるわけでもなく、「駅までの道を十分も歩いているとわたしのバッグはみるみるうちにティッシュや割引のちらしでいっぱいになった」。差し出されて断れないのである。だから、「献血に協力してくれませんか」と言われれば、そのまま協力する。献血を終え、「ガラス窓に映った自分の姿」を見て彼女はこう思う。

 なんだかとても哀れにみえた。(略)ひとりで、こんなに天気のいい日に街へでても、どうやって楽しめばいいのかもわからない、哀れな女の人だった。そして、みんなが無視するか受けとってもすぐに捨ててしまうようなものでぱんぱんに膨らんでいるバッグだけを大事そうに抱えていた。

 こんな日常がかなりの枚数をかけて延々と描かれる。愚かな人ではない。たんにつまらない、何にも無い人なのだ。読んでわかったことを言うと、こういう人は何も考えてないに等しい。夢も言いたいことも何も無い。彼女の考えてることは無内容に思えた。他の登場人物、主人公と対照的な人物の人生が有意義だと言うわけではない。そうした比較の問題はまた別の話である。とにかく、主人公がつまらぬ人であり、そういう人間を主人公にした小説を読んだところ、特に意味ある内面を持たない人間が描かれていたのである。この点が私には貴重な読書体験だった。
 こんな主人公が恋愛と出会う。主人公と対照的な人物でさえ経験してない恋愛というものをする。こんな主人公だからこそ、意味のある行為として恋愛だけができる、と言うべきだろう。われわれはどうなんだろう、というところで、やっと比較が問題になる。作者が書こうとしたのは、そんなことかもしれない。