奥泉光『シューマンの指』(2)「『シューマンの指』音楽集」

 『シューマンの指』を読んでいて、ところどころもどかしいのは、聴いたことの無い曲が言及されていることだ。同じ気持ちの読者が多いのだろう。ソニーが六枚組のCDを作ってくれた。小説に現れるシューマンをほぼ全部集めて三千円というのは便利だ。「ピアノ協奏曲」はキーシン、「ダヴィッド同盟舞曲集」は小菅優、「フモレスケ」はホロヴィッツ、「ピアノソナタ第二番」はペライアなどなど、多彩な顔触れを並べている。
 選曲と演奏家の選択の基準によくわからない点がある。ちらっとしか言及されない「ピアノソナタ第一番」が収録されている反面、「蓮の花」が無い。後者は小説では「シューマンの書いた歌曲のなかで最も美しいものだ」と書かれているのに。演奏家の選択はもっとわからない。たぶん、できるだけ小説のイメージに近くしようとしたのだろう、「ピアノ四重奏曲」はグールドだし、「花の曲」はホロヴィッツだ。これらは小説どおりである。反面、小山美稚恵の「クライスレリアーナ」など、もたもたした演奏であり、『シューマンの指』のシューマン観にそぐわぬ気がした。小説で一番重要な曲が「幻想曲作品一七」であるのは言うまでも無い。これはキーシンが弾いている。小説では力強くて情感あふれる演奏だが、キーシンのは繊細で華麗に聴こえる。
 ちなみに奥泉光シューマンの季節」(昨年の「本」八月号)によると、作者の印象に残る演奏は、「謝肉祭」はケンプ、「クライスレリアーナ」はホロヴィッツ、「幻想曲作品一七」と「ピアノソナタ第一番」と「交響的練習曲」はポリーニ、「ダヴィッド同盟舞曲集」はウゴルスキ、「ピアノソナタ第三番」は椎野伸一らしい。
 とにかく小説に現れる曲が聴ければいいCDなのだから、小説と印象が異なってるからといって、私に不満は無い。繰り返せば、とても便利な六枚だ。特に、小説の終りに弾かれる「天使の主題による変奏曲」や、それにからめて言及される「暁の曲」をわざわざ合わせて買うなんてことは、こんな機会でも無ければしなかったろう。「天使」はルイ・サダ、「暁の曲」は伊藤恵である。検索すると、ルイ・サダの「レコード芸術」二〇〇一年二月号のインタヴューが見つかった。

 「天使の主題による変奏曲」はほとんど知られていませんし、録音もほんの少し存在するに留まると思います。この曲の美しさといったら・・・。これはシューマンの生涯最後の音なのです。この作品の作曲途中に自殺を考え、第2変奏を書いた後でライン河に投身自殺しました。救出されたシューマンは、最後の3つの変奏曲を書き上げ、その後一切作曲しようとはしませんでした。というわけでクララ・シューマンがこの曲の出版をしたがらず、1939年に初めて出版されました。この作品は、『ちょうど子供が何か表現したいのに、その言葉を見つけることができない。』という感じに似ています。最後の変奏曲は終わりのない繰り返しです。最後に引き裂かれるような部分から諦観に至ります。この見事な最後のページのおかげで私はこの曲の録音をしたくなったのです。シューマンの最後の作品は「朝の歌」だと言われていますが、そうではありません。「朝の歌」の第4曲でしたか、32分音符で書かれた伴奏にすばらしいです旋律が歌われる曲以外は、「天使の・・・」の方が、表情の移り変わりや孤独、悲しみが見事に描かれているという点で、音楽的にも勝っていると思いますし。非常に私の個人的な考えですけれど。

 一般にはシューマン精神障害が現れた曲とされているらしく、小説でも、「すでに精神の奥行きは失われて、劣化したバネのごとき単調さに全体が支配されているといわざるをえない」とある。聴くと、私はルイ・サダに賛成したくなる。そのように彼が演奏してくれたこともあるだろう。最後に永嶺修人がこの曲を弾く場面は「幻想曲作品一七」以上の名場面だと思う。サダとはまったく異なる修人の演奏で聴いた里橋優が「恐怖を覚えた」のがわかる。すると、一般に言われているように弾く方が正しい曲なのかもしれない。
 もうひとつ、このCDの恩恵は、自分では日ごろ聴くことの無い演奏家に触れる機会を与えてくれたことだ。仲道郁代が気に入った。「子供の情景」と「アベッグの主題による変奏曲」と「ピアノソナタ第三番」を弾いてくれている。力感があって、『シューマンの指』にふさわしくもある。「ピアノソナタ第三番」を小説は次のように解説する。仲道の演奏で違和感無く聴けた。

 第一楽章の冒頭からいきなり、「クララの動機」は、左手のオクターブで、激しく刻みつけられるかのごとくに現れる。短い序奏のあとの、青白く燃える鬼火のごとき感情を迸らせる第一主題、これもまた「クララの動機」から派生したものであり、軽快で明朗な第二主題が導入された後、区分けのはっきりできない展開部から再現部、さらに結尾へと続くなかで、「クララの動機」は、ときに素顔を晒し、ときに仮面の陰に隠れる形で、繰り返し姿を現す。第二楽章の変奏曲はいうまでもなく、フィナーレでも、泡立つ光の奔流のような音楽を同じ動機が密かに支える。

 変奏曲が第二楽章なのは、小説で演奏されるのは、この曲がスケルツォの無い三楽章形式だった初版だからである。たぶん、ポリーニが初版でCDを出しているからだろう。「シューマンの季節」には「我がアイドルであったマウリチオ・ポリーニ」とある。ポリーニがなんでそんなことをしたのかは知らない。
 さて、ここまで書いたところで、ポリーニによる「幻想曲作品一七」の最初の録音を聴けた。小説での第一楽章の描写に納得である。これは「ピアノソナタ第三番」もポリーニで聴いてみるべきだろう。もっとも、ベーゼンドルファーが使われてることを考えると、「幻想曲作品一七」なんかは最後に言及されてるアニー・フィッシャーなのかもしれない。一九五六年の録音で聴くと、ピアノと殴り合ってるような演奏だった。「冒頭から続く左手のアルペジオを、月下のピアニストは、驚くほど平明な、リズムに余分な揺らぎのない正確さで鳴らし」という感じではない。ただ、小説に言及されるのは一九七一年の録音である。