『1Q84』まつり「群像」「文学界」8月号

 八月号は「群像」と「文学界」が『1Q84』の特集を組んでいる。前者は安藤礼二苅部直諏訪哲史松永美穂の座談会と小山鉄郎の小論。後者は加藤典洋、清水良典、沼野充義藤井省三の小論である。ほかにも、河出書房が斎藤環四方田犬彦など三十六人の発言を集めた『村上春樹1Q84』をどう読むか』を出すそうだ。「群像」と「文学界」を読んだメモを残しておく。
 座談会のメンバーはだいたい、『1Q84』はパラレルワールドを描いていない、という意見のようだ。ただ、描いていると言うにせよ、描いてないと言うにせよ、パラレルワールド(並行世界)って何なの?ということをもっと考えるべきだろう。
 安藤は指摘する。最初のあたり、青豆が高速道路を降りるところでペットボトルを見る。当時としてはおかしなことだ。「これはつまり、八〇年代のことを書いているようでいながら、じつは現代を書いているのではないかと私は思うんです。その時点で、パラレル・ワールドなどではなく、現実は一つなのだということを村上春樹は言っている」というのが安藤の説だ。着眼は悪くないが、それがパラレルワールドを否定する根拠になるとは思えない。
 苅部は、「青豆は天吾の書いた物語にとりこまれ、その結果として死を迎える」と言う。青豆は、少なくとも結末では、やはり天吾の作った人物として考えるべきなのだろうか。松永は、こうした女性が殺されて男が生き延びる構成を気にした。私が興味を持つのは、現実と物語の関係や、世界と世界の関係である。苅部発言をもう少し引用すると、「青豆がはまりこむのと同じように、読者である私たちも作者が創った架空の時空間に引きこまれてゆく」。私は苅部が「とりこまれ」「引きこまれ」という比喩的な語法を混乱して使用してるとしか思えない。「首を長くして待つ人」の首は実際に長くなっている、と思い込む種の誤用である。
 可能世界ではなく並行世界をまともに語れる人って、案外少ないのかもしれない。「ファントム、クォンタム」の作者が『1Q84』に冷淡であるのは残念なことだ。河出の三十六人に、語れる哲学者が混じっていれば読んでみたいが。
 座談会で「あっ」と思ったのは諏訪である。Book2 の第四章で天吾と青豆は接触している、と言うのだ。この大発見はぜひ「群像」でお確かめを。彼の発言でもうひとつ気になるのは、青豆だけが天吾の文体に包まれ導かれることを「これが王国なのだ」と感じるのではなく、「同時に天吾も、自分の方が逆に青豆の物語に含み込まれたいと思っている」という指摘である。
 小山も面白い。ひとつだけ紹介すれば、「リトルピープル」は「魏志倭人伝」の「倭人」を英訳した語ではないか、と述べている。そうなら万国共通の集合無意識よりは日本人の典型が描かれたことになる。無論、これは本作の国際性とは矛盾しない。対して、「文学界」はパッとしなかった。続編への期待はまったく根拠が無いわけではないこと、藤井が深田保のモデルとして新島淳良を挙げていること、だけ記しておく。