十年前の「新潮」7月号、三島由紀夫賞選評

 『服部さんの幸福な日』(2000)と『濁った激流にかかる橋』(2000)が好きだから、私は伊井直行の愛読者だ、と言ってもいいかもしれない。特に、筋書きだけ書いたらサイコで緊迫感のあるはずのストーリーを、のほほんと仕上げてしまった前者が気に入っている。作者もそんなふうに書きたかったのではないか。書き出しの、「搭乗した旅客機が墜落することがわかったとき、服部さんが最初に考えたのは、十日ほど前に発注した、来週末に納車される予定の新車のことだった」を読んだだけで、それが伝わってくるはずだ。けれど、一般の評価は高いとは言えない。
 ネットの読者の感想をざっと読むと、ほめているようでも、「設定は説得力に欠けるが、ハラハラドキドキの手に汗握る展開が面白い」と言う人は、のほほんを除去して緊迫感だけで読んでしまったのだろう。柴田元幸の書評も見つかったが、似た感じだ。ほか、典型的な発言を引くと、「中盤まではいかにもこれから大事件が起りそうな雰囲気だが、後半はふたを開けてみるといまいち深刻さや切迫感がない、といった印象。(略)どことなくお間抜けな感じなのである」。緊迫感だけで読みたいらしい。そんな本はどこにでも転がっているのに、わざわざ『服部さん』を選んだあなたがお間抜けだ。ただ、手に汗握って読む人より正常だとは思う。この小説の最後の方は主人公に都合の良い偶然が重なり過ぎる。むしろしらける。脱力して読みたいところだ。
 初出は一九九九年八月号「新潮」。当時の新聞書評では、川村湊が、「この"まず、ありえない"設定から始めて、作者はいったい何をこの作品で実現したかったのか」と戸惑い、半信半疑で「社会派ミステリーのパロディーではないかとも思えてくる」とまとめようとしている(『文芸時評1993-2007』)。菅野昭正に至っては、「このドタバタめいた騒動がどんな寓意に達しているのか、肝心なところは分かりにくくなってしまっている」(『変容する文学のなかで』)。寓意があるはずだ、と思ったようだ。
 かように違和感のみ与えて読書界から消えた『服部さん』だが、三島賞の候補にはなっていた。受賞したのは星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』で、まあ、三島賞らしくってそこはどうでもいい。『服部さん』の選評が気になった。筒井康隆は後半に疑問を呈している、「予定調和へ向かうために下降気味になってしまい、笑いも乏しくなる」。宮本輝は、「所詮は「おちゃらけコメディー」でしかないのではないか」。福田和也は、「寓話的リアリズムといったジャンルに分類」したらしく、読むのに「耐え難いもの」だそうだ。島田雅彦は、「出来事の意外性はみな黒幕と女によって引き起こされるという伊井氏の初期作品のパターンを踏襲している」「その中庸なユーモアを突き抜けた先をぜひ読みたい」。この小説が文庫化されることは無さそうだ。
 唯一、積極的に推してくれたのが高樹のぶ子だった。「他の委員が指摘する欠点は確かにあるけれど、読ませる企みの中に伝えたいことを沈めて、読者に提出する意図と芸がある。(略)この小説には整合性が無い、というより少しズレていて、そこに気味悪い人間の執着心や子供じみた暴力がにじみ出ている。(略)御都合主義の展開にもかかわらず、読後感が予定調和の中に溶解することはなかった」。サイコ、としか私が思わなかった部分を「少しズレていて」云々でうまく言ってくれてる。
 私が服部さんに好感を持つのは、彼に「ほんとのぼくをわかって」というエヴァ的欲望がまったく無いことだ。結末でそれがいちばんはっきりする。わかってもらえなくてものほほんとしている。そんな人に「幸福な日」がやってくる。寓意があるとすればこれだろう。その点は、世にあふれる多くのシンジやアスカにとって、予定調和でない結末のはずだ。