柄谷行人『世界史の構造』(2)「第一部」

 「序説」で述べた交換様式A「互酬」について論じた。一言で言えば、贈与と返礼である。柄谷行人は氏族社会で代表させている。特に共同体間の互酬が扱われる。たとえば、ある氏族から何かが贈られると、贈られた側はそれを他の氏族に贈らねばならない。つまり地域一帯に贈与の輪ができる。それによって、氏族間のネットワークを保ったり、新たな氏族との関係を開いたりするのだ。要点は、互酬において共同体と共同体の間に優劣や上下の関係が生じないことである。
 柄谷の着想のユニークなところを書いておく。氏族社会は国家が発生する前段階の未開状態のように扱われるのが普通だ。しかし、柄谷は、氏族社会の時代が歴史的に長く続いたことに着目した。すると、氏族社会は国家が発生せぬよう抵抗した高度な社会に見えてくる、というわけだ。交換様式Aを現代に復権させる意義もそこに由来するのだろう。
 さて、わかりにくいのは、共同体と共同体の平等だ。我々の社会の貨幣と比べて見よう。貨幣はすべての商品と交換できる。だから、我々はただの紙切れでしかない紙幣に霊力を認める。それが物よりも貨幣を蓄積したいという欲望をかきたてる。そして、財の蓄積が不平等の始まりである。対して、互酬においては贈り物を蓄積することは許されない。贈与は返礼されねばならない。あるいは新たな贈与をせねばならない。蓄積が無ければ国家も生じない、ということだろう。
 つまり、我々が信じている貨幣の霊力を互酬は消してしまう。この論法で柄谷は宗教も説明した。氏族社会の宗教は呪術である。狩猟民は動物を殺す。殺される動物の霊力に対して畏れや後ろめたさをおぼえざるを得ない。その霊力を呪術における供犠などの贈与によって消してしまう、というわけだ。
 感想。普通は呪術ってのは、自然の霊力との関係を深めると考えられるけど、むしろ関係をいったん括弧に入れる作業なんだ。合格祈願よりは葬式や墓参にあてはまりそうだ。レヴィ=ストロースとモースについて、「言語・数・貨幣」(1983)の頃の柄谷は、「モースは贈与に対して返礼を強いる力を、原住民がいうハウに求めたのだが、レヴィ=ストロースにとって方法的に許しがたいのは、原住民の"意識"に依拠してしまうことであり、またハウやマナのように超越的なものを前提してしまうことである」と述べている。当時の柄谷の眼目は、構造を不安定にする自己言及的な要因を解消するにあたり、レヴィ=ストロースがハウやマナをゼロ記号として扱った、ということだ。「ゼロ記号」は『世界史の構造』では74ページの「浮動するシニフィアン」である。同じページで柄谷は続けて言う、問題は、レヴィ=ストロースに代表される構造主義の「構造」が「共同体の中で機能している制度にほかならない」ことだ。この理論的な考察で私が思い出すのは「隠喩としての建築」(1981)だ。たとえば、言語において「音素は、上位のレベルを前提にしたときに差異性としてはじめて存在するものであり、形態素や語も、さらに文も、それぞれ上位のレベルを前提するときにのみ差異性としてとりだされるのである」。言語の成立を前提してはじめてその構造を取り出せるのと同様、共同体が成立した後にその構造が取り出される。ゆえに、共同体の発生の説明に構造を使用するのは転倒している。柄谷に典型的な内部批判の論法である。追記。『世界共和国へ』では、「超感性的な何かに贈与する(供犠を与える)ことによって、それに負い目を与えて人の思う通りにすることが、呪術なのです」とある。