黒田三郎「引き裂かれたもの」(その2)

 昭和二十九年五月のことである。結核患者の入退院に関する入退所基準を厳しくする、という通達が厚生省より示された。これに対する反対運動を繰り広げたのが日本患者同盟である。『日本患者同盟四〇年の軌跡』(1991)によると、五月に大阪で二〇〇名が、六月に岡山で五〇〇名が、府庁や県庁に押しかけ、それなりの譲歩を勝ち取っている。闘争には付添婦の制限反対や患者の待遇改善といった要求も盛り込まれた。もともと当時は、社会保障費の減額に反対する運動が湧き起っていた時期でもあったらしい。
 問題の東京である。七月二五日から二泊三日で、「陳情団は、支援団体を含めて三〇〇〇名という、日患同盟の歴史はじまって以来の大規模な行動であった」(上記『軌跡』)。知事との会見はもの別れに終わったものの、一定の成果を得た運動だったようだ。しかし、代償は大きかった。座り込みをした患者から死亡者を出してしまう。米津敏代という三十代の女性で、幼い子を遺したまま二七日に亡くなった。
 黒田三郎がどの新聞を見たのかはわからない。私が調べた朝日新聞二八日の見出しは「座り込み患者一人死亡」だった。もちろん、記事には死亡者の名は記載されている。この陳情は連日報道されており、注目を集めていたようだ。ある他紙が小さな扱いにとどめて死亡者の氏名をおろそかにした、とは考えにくい。十月の国会の厚生委員会でも言及された出来事だ。黒田は見出しから着想を得た、と考えておく。
 それにしても、と件の記事に思う。写真を見ると、都議事堂の階段に寝泊まりする患者たちはぎっしりで、船底に敷き詰められた奴隷か移民みたいだ。上記『軌跡』によれば、岡山の運動の時点で「のたれ死にするより県庁で死のう」という合言葉が生まれていた。新聞には、患者を見殺しにした都当局の対応が冷酷だという意見と、患者を駆り出す闘争方法が無謀だという意見と、双方の言い分が紹介されている。今なら死者が出た陳情団の完勝で終わったのではなかろうか。