閑話。

 花村萬月なんて読むのは何年ぶりか。「文学界」八月号に連作「色」の第三回「黄」が載っていた。「もう十年ほど前になるだろうか。書家の提言がきっかけで、手書きか、ワードプロセッサかという論争がおきたと記憶している」。おお、十年前の話なら任せてくれ。現代文学に慣れる個人的なリハビリが役に立った。萬月の言ってるのはあれだろう。萬月は記憶に従って書いているように見せている。実際は読み直してるに違いない。まあいい。当然のことながら、彼も「書家」とは反対の意見だ。実体験として、彼がワープロを使うようになっても、「誰ひとり文章上の変化を指摘した者はいなかった」。

 問題提起した書家の方は、なにか大きな勘違いをしていたようだ。小説を書くということは手紙や論文を書くこととはまったくちがう。ワードプロッセッサ使用による執筆は意識の底でローマ字で思考してしまうなどといわれたが、それもあたらない。小説は言語とその記号体系で表現されるものであるが、その萌芽とでもとでもいうべき核、あるいはもっとも原初の繭は、言語とは無関係なものである−というのが最近、私が得た直観だ。これが小説家すべてに当てはまるかどうかはわからないが、私の内面においては間違いなく言語以外のなにものかが小説発生の鍵となっている。その混沌を整理体系化していくのに用いるのは言語だが、それは脳裏に書かれているものであって、それをあらわす文房具は万年筆でも鉛筆でもワードプロセッサでも、なんでもかまわない。(略)たしかに書家にとって書は書字の運動だろう。だが、文学は決して書字の運動ではないのだ。

 表現における言語以前の何かの存在を認める立場だ。「核」や「繭」をそうまとめていいだろう。芽吹き始めた早春の山を見て、何か言いたくなるけど、うまく言えない、もやもやした感じが「何か」の典型だ。その個性的な萬月版が「核」や「繭」だろう。さて、早春の山を見ているうちに、「山が笑う」という言葉が浮かんだ。うまく言えた気がする。「言語による混沌の整理体系化」の素朴な例だろう。「何か」と「山が笑う」の間にまた何かの関連があることを認める立場だ。それを野矢茂樹は「本」四月号「語りえぬものを語る」第24回「うまく言い表せない」で否定している。

 新たな隠喩が作られるということは、新たな物語が作られ、新たな相貌が作られることである。つまり、「山が笑っている」という隠喩が初めて作られたとき、その相貌も初めて作られたということになる。ならば、「うまく言い表せない」とは、いわく言い難い相貌がそこにあるという意味ではありえない。うまく言い表すまで、相貌はまだ存在していないのである。では、「うまく言い表せない」とは、どういうことなのか。それは、新たな相貌が誕生する予感のようなものと言うしかない。いわば、相貌誕生直前の、陣痛の呻き声なのである。

 この連載は最後の数回しか読んでないので、単行本化されるのを私は楽しみにしてる。若い頃から私が勉強してきた言語論はこうしたものだった。ヴィトゲンシュタインが好きなのである。ただ、最近は「核」とか「繭」とかを応援したい気分も湧いてきた。同様、私的体験とか私的感覚なんかも擁護したくなってくる。川上未映子『ヘヴン』を読んでるうちにそうなった
 それにしても、ワープロが小説を変えた、という理論は後を絶たない。五月の「日本近代文学」八二集に清水良典「ペンだこが消えたとき」があった。笙野頼子がフォントを拡大したりするのを「ワープロによる執筆が招き入れた表象」の例として挙げている。『レストレス・ドリーム』を引用し、ワープロ体験によって、「まず身体と「書く」こととの一体感が分離し、続いて「文章」と「意識」との間にも不如意なズレが生じている」と指摘した。きっとほかにも、万年筆が文学を変えたとか、原稿用紙が文学を変えたとか、修正液が文学を変えたとか、探せばいっぱい見つかるに違いない。