『1Q84』Book3 再考

 村上春樹について書かれる批評というのはどうして「謎本」的なものが多いのだろう。この書き出しは大塚英志村上春樹はなぜ「謎本」を誘発するのか」だ。二〇〇四年の『サブカルチャー文学論』に入っている。初出は一九九八年だ。このブログでずいぶん取り上げたように、昨年の『1Q84』Book1,2 にもたくさんの「謎本」が出た。大塚の十二年前の問いはまだ有効である。彼の答もまだ有効だと思う。その一部を紹介しておこう。
 まづ、キーワードになるのが「情報」だ。春樹の小説は情報に満ちている。物は情報化して語られる。大塚は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のサンドウィッチを例に挙げ、こう述べている。

 サンドウィッチの色や形、食感といった官能なりに結びつく描写もなければ食欲も描写されない。サンドウィッチへの蘊蓄は語られるけどサンドウィッチへの飢えは語られない。サンドウィッチはレシピに還元されるが五感には還元されない。あるいはサンドウィッチをめぐる官能がレシピ化しているといったほうがわかり易いかもしれない。

 レシピという情報としてサンドウィッチは語られる。で、サンドウィッチの作り方のコツを解説する「謎本」が生まれる。そうした本によって春樹作品が解読されるのは、「無論、それのみが、村上春樹を理解するコードではないが、作品を一貫する「情報化」への志向も含め、村上春樹は小説の外側にもう一つの解読のためのコードを必要とする」からだ。
 これは『1Q84』Book1,2 に当てはまる。『金枝篇』や『サハリン島』や「シンフォニエッタ」やヘックラー&コッホをめぐる情報は、読者を深読みや読み込みに誘う。私だって『一九八四年』や『プレイズ・W.C.ハンディ』を買った。鈴木和成は首都高速三軒茶屋付近の写真を撮って、いま非常階段が無いことを示した(「文学界」二月号)。それら情報を解説した「謎本」は「もう一つの解読のためのコード」を提供してくれるわけだ。
 しかし、Book3 には当てはまるだろうか。難しいと思う。早くも本屋には『村上春樹の『1Q84 BOOK3』大研究』があった。相変わらずの粗製乱造である。立ち読みで調べたところ、案の定、上記の点について成功してるとは思えない。それは作り手の無能や不誠実だけでは説明できない、Book3 の特徴のゆえだろう。たとえば、Book3 には『失われた時を求めて』が出てくるが、「もう一つの解読のためのコード」を何も喚起しない。もちろん例外はある。たとえばエッソ・タイガー。でも、これはきっと調べようが無い。
 前にも書いたことを繰り返すと、Book1, 2 の多様性が、Book3 では、二人の主人公の再会という一点にあっさり収束されてしまった。再会を信ずる者は救われる、それだけ。自分の物語を信頼し肯定しよう、という安易なメッセージが恥ずかしげも無く前面に出た。物語を信ずる危険性を熟知したうえで物語を擁護する、という複雑さが村上春樹の信条だったはずで、それが魅力だったのに。